第19講 松陰先生の片鱗
大学4年生のときはアイスホッケー部の副キャプテンとして、卒業してからはヘッドコーチとして、常に後輩を叱る立場にいた。
チームのことを想い、厳しく指導することを心掛けていた。
これは大学時代にしか味わえない試練を乗り越えた喜びがあることを伝えたかったからだ。
本気で叱られるという経験も、これからの人生にとっても価値ある体験になると思っていた。
それがある時期から、「叱る」ことができなくなった。
なぜ叱ることができなくなったのか。
今振り返ると、三つ理由がある。
一つ目は、後輩との距離が生まれてきたこと。
叱ることで生まれる距離もあるが、年々新しい学生が入ることでの世代間の距離もある。
二つ目は、自分の代わりに指導することができるスタッフが成長してくれたこと。
こうなると、自分が直接後輩を叱るということが厳しくなる。
三つ目は、自分の予想を遙かに超えた結果や考え方を後輩がしてきたこと。
特にこの三つ目の理由は大きい。
叱るという行為は、どこか相手を抑え込むという側面があるはずだ。
にもかかわらず、創造性豊かな発想と結果が伴う行動を見せられた時、なんて自分という人間は小さい器なのだろうと感じたことだ。
果たして叱るということが本当によかったことなのか。
単なる自己満足ではなかったか。
そんな問いが頭を巡った。
これは子育てについてもそうだった。
一人目二人目の時は、叱るという表現でしか、子どもと関わりを作ることができなかった。
それが子供が成長し、親が思ってもいない強い意志を表現する瞬間に立ち会ったとき、自分の愚かさに気づかされた。
ここ数年、いただいている志がある。
それは、子どもを信じきることができる大人になること、だ。
20年間、子どもたちと接してきて、一番学んだのは、子どもは素直であるということ。
素直であるからこそ、大事なのは信じることだ。待つことだ。
これは、もしも子供をもつことができなかったら、死ぬまで学べなかったであろうテーマだ。
今回の修身では、さらに新しい発見があった。
信じるという力のすごさは、今リアルに体験しているところだ。
しかし、もっと素晴らしいことがある。
それは、信じる相手が存在するということだ。
信じる力を学ぶには、相手がいないと成立しない。
つまり、信じることを全力でぶつけることができる相手がいること。
これがどれほど幸せなことであるのか。
それを実感できた。
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