修身を学ぶ会富山
第37講 死生の問題

妻の言葉を思い出した。
ほんと数日前の朝の出来事だ。
朝のランニングを終え、末っ子を学校に送り出した後、
「走っている時に閃いたことがある」
「生きるとは、自分をおもてなしすることなんやな」
と。
自分の肉体、自分の心に向き合い、最高のおもてなしをしてあげること。
そんなイメージが沸き起こったことを、飛び跳ねるような感動で伝えてくれた。
(実際リビングで飛び跳ねてた)
我が力を捧げきるというのは、自分の力を余すことなく生かし切るということ
と書かれてある。
本当にそのような生き方ができたのであれば、幸せな人生だと胸を張れるだろう。
また、そういった人生を生き切った時、副産物として、社会に貢献でき、死後もなんらかの形で社会に働きかけることができる存在になるのではないか。
大事なのは、「副産物」だということのように思える。
ただ、「死生を超える」つまり、肉体のない死後こそ貢献できるということが、なぜすばらしいことなのか。
鵜呑みにせず、疑問を抱くことも必要だなと思えた。
その意味することが、名を残すためという理由になると、本末転倒だ。
だからこそ、偉人は、言葉の残したがらないのかもしれない。
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