top of page

副産物

修身を学ぶ会富山


第37講 死生の問題



ree

妻の言葉を思い出した。

ほんと数日前の朝の出来事だ。


朝のランニングを終え、末っ子を学校に送り出した後、

「走っている時に閃いたことがある」

「生きるとは、自分をおもてなしすることなんやな」

と。


自分の肉体、自分の心に向き合い、最高のおもてなしをしてあげること。

そんなイメージが沸き起こったことを、飛び跳ねるような感動で伝えてくれた。

(実際リビングで飛び跳ねてた)

 

我が力を捧げきるというのは、自分の力を余すことなく生かし切るということ

と書かれてある。


本当にそのような生き方ができたのであれば、幸せな人生だと胸を張れるだろう。


また、そういった人生を生き切った時、副産物として、社会に貢献でき、死後もなんらかの形で社会に働きかけることができる存在になるのではないか。

大事なのは、「副産物」だということのように思える。


ただ、「死生を超える」つまり、肉体のない死後こそ貢献できるということが、なぜすばらしいことなのか。

鵜呑みにせず、疑問を抱くことも必要だなと思えた。

その意味することが、名を残すためという理由になると、本末転倒だ。


だからこそ、偉人は、言葉の残したがらないのかもしれない。

最新記事

すべて表示
希望の種を拾う

修身を学ぶ会富山 第7講 身代わり 小学校の低学年だったころ、同級生が雪の事故で亡くなるという出来事が起きた。 当時担任だった、いつもやさしい女性の先生は、事故後、まるで別人のように表情が硬くなり、少し冷たい空気を常にまとっているようになった。 その変貌ぶりがあまりにも印象的で強く記憶に残っている。 きっと、その時の担任の先生は、感じるの必要のない「責任」と、死を覚悟したのかもしれない。 数か月間

 
 
 
自分の平生使い慣れた一を改める

修身を学ぶ会富山 第5講 学問の本義 弓道をはじめて、ようやく3年になる。 少しずつ、道の深遠を知ることができるようになってきた。 自分の平生使い慣れた一を改める 人生50年生きてきて、無自覚に身に着けた「一」をどう直していくか。 妻にこれまで何度も注意されいてる身体的癖がある。 少しあごを上げた状態で歩く姿勢だ。 相手にあまりいい印象を与えないと、よく注意を受ける。 注意されるたび、そうだなと思

 
 
 

コメント


bottom of page