A NEW EARTH
二巡目 第11週 振り返り
集団的なエゴ
ときには報酬も名誉や栄達も求めず、集団の大きな目的のために生涯をささげ、個人的なエゴが完全に溶解したように見えることもある。個人的な自己というすさまじい重荷から解放されれば、さぞやせいぜいするだろう。そういう集団のメンバーはどれほど仕事が大変でも、どれほどの犠牲を払っても、満ち足りて幸せだと感じる彼らはエゴを超越しているように見える。
問題は、ほんとうにエゴから解放されたのか、それともエゴが個人から集団にシフトしただけなのか、ということだ。
本当に驚きの箇所だ。
幼少のころからチームスポーツをしてきた。
そのときの感情を思い出す。
集団の中で没頭することで、自分の弱さに向き合うことから逃げることができる。
集団の中でエゴイストのように自分の強みを全面に活かしていく。
これは、結果的に集団のためにもなるし、勝利へに貢献となり、自分の評価にもつながる。
ある意味成功方程式というか、成功体験があるからこそ、チームの中で評価を獲得することは容易だと感じていた。
しかし、その反面、無意識の信念を強化させただけで、チームメイトや自分の弱さに目を向けることでの気づきを得る機会を失っていたように思う。
また、まったく違う意味でもこの箇所には感動を覚えた。
それは「エゴが個人から集団にシフトできる」ということ。
一見、エゴとは自分の身体の一部であり、身体の内部に保留しているもののように思える。
しかし、自分の身体を抜け、広がり、集団という空間の中に入り込む力があるということ。
これは、身体性の拡張というか、個の拡張ともいえるなと感じた。
自分とは何か。
エゴが飛び出し、自分を拡張させ、集団の中で自分を見出す。
集団的エゴは、戦争のような悲劇を生み出すことにもなるが、自分を拡張できることを経験・理解することにもつながり、自分と他者という境界線を溶解させる力にもなるのではないか。
この可能性に感動したのだ。
そのために、エゴはとても大切な存在となる。
啓かれた企業、慈善団体、学校、地域コミュニティのいずれであろうとも、気づきの光のなかに引き出して人間のエゴを解体することがこうした集団の主たる目的になる。
感情の誕生
すべての生命体と同じく身体にも有機体としての身体自身の知性がある。その知性は、あなたの心の言うことに反応し、あなたの思考に反応する。 感情は、心に対する身体の反応なのである。
心が感情になるのではなく、身体の反応が感情を生み出しているのだとすると、どれほど自分の身体、身体知に目を向けて大切にするかは、すごく重要になる。
ふと思い出した。
富山県の里山に土遊野という農業を営んでいるめぐみさんがいる。
ぼくは、めぐみさんが発する言葉が大好きだ。
めぐみさんは、富山の里山で育ち、都会に進学する。
それから里山に戻り、両親の想いを引き継ぐことになるのだが。
都会にいるときに感じためぐみさんの身体知はこうだ。
わたしは、わたしたちは、土から離れている。
土から離れた身体と、土と触れ合う身体。
そこから生まれる心、その心に身体が反応する感情。
彼女は、このあまりにも大きな違いに愕然としたのではないか。
ここで土遊野のHPにある「あいさつ」をそのまま紹介した。
農業は、いのちを育む温もり溢れる仕事です。
その仕事を通じて、人の役に立てていることを嬉しく思います。
やりがい自体はわかっていましたが、現場で目の当たりにしたのは、農業は「ほかの生命に直接手をかける」ことで成り立っているということです。
人間の食糧を生産するために、私たちは多くのいのちをいただいています。
「自然」と「人」が離れ始めている現代において、そう思い起こせる人はきっと多くはないでしょう。
農業に携わっている私でさえ、鶏のいのちをいただくときに「ごめんね」から「ありがとう、いのちを繋がせてもらうね」と言えるようになるまで時間がかかりました。
それでも、毎日たくさんのいのちをいただいています。
それを育んでくれる大地への敬意を忘れずに。
このいのちを伝え、ひとのいのちに繋げ続けたいと思っています。
この彼女のメッセージを改めて思い出させてくれた。
身体はとても知的だが、実際の状況と思考との区別をつけられない。だから、すべての思考にそれが事実であるかのように反応する。
思考にとらわれず、イマココからはじめる。
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