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実践者

第20講 雑話


今年始めたことのひとつが、「大学」の素読会だ。

はじめるに当たって

「素読も大事だが、実践を伴うことが必要だよ」

というアドバイスをいただいた。

 

確かに、「大学」に触れると、実践の大切さを実感する。


実践というものは、何か目標を決めたり計画を練るようなものではなく、いざ目の前のなすべきことに目を向け、心と身体をひとつとして動くことなのだろう。

 

そこにしっかり目を向けていきたい。

 

今、ひとつ、仕事前に机を拭くこと。

これは年末の親子論語塾で安岡先生のお話からヒントをいただいた。

そしてフェイスブックでも、「毎日机の上を真っ新にすることを続けている」という投稿を見たことがきっかけになった。

 

机を拭くとは、汚れているから拭くのではなく、今から利用する場所を清めるという意味も込めて行う。

これは習慣にしていきたい。

 

今回の「雑話」の中で、

花が開くのは40代から。実を結ぶのは60代から。偉人は肉体が消え失せてから実を結ぶ。

そんな言葉があり、心に留まった。


偉人だから、早く実を結ぶものではなく、むしろ時間をかけて実を結ぶということに、少し救われる印象があった。

焦る必要がないんだと。


ぼくらはどうしたって、時間が早いということに価値を感じてしまう文化の中で生きている。

でもそうではない世界もあるんだと。

 


しかし、今感想を書き綴っていて気づいたことがある。

それは、偉人は、人生の最後まで実践者であり続けたのではないか。

だからこそ、肉体が消えてから実を結ぶのだろう。

 

人生の途中で、「ここまでで十分した」という納得のもと、立ち止まり、次世代のために実をつけるのが一般的であるにも関わらず、偉人は、実践を止めない。


常に挑戦者であり、現役である姿勢を貫く。

それが偉人の生き様なのだかと思えてくると、当初の印象が浅はかな考えだったことに、すごく反省した。


朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり

有名な論語の章句を思い出した。

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