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執筆者の写真yamashina shigeru

懼れず

2か月ぶりに親子論語塾に参加してきました。


「中秋の名月を楽しみましたか」


こんな質問から始まりました。

月にはいろんな呼び名がある

月を待つ姿勢にも名前がついている。寝待月、立待月…。


「雲ひとつない夜空の満月もきれいだけど、うっすらと霧のような雲がかかり、月の明かりがぼやけている状態「雲遮月」は、趣き深い」

「きれいな日本語を少しずつ学ぶことは大切です。」



子曰わく、

道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に游ぶ



最後の「芸に游ぶ」の芸は、現代の芸とは違い、当時の勉強の必須教科のこと。

今であれば、いろんな習い事だったり仕事だったり。

このやらなければならない学び事の中で、心の余裕を持つということ。


「月を見て何を思いますか?」

「私は2600年前の孔子の見る月のことを考えます」


2600年前の人たちも、私たちと同じ月を眺めている。

当時は、テレビも携帯も電気もない。

夜は真っ暗闇で静か。


当時の人は、日々の忙しさからふと解放されるために何をしていたのか。

今なら、いろんな娯楽がある。

2600年前にはそういったものはない。

音楽も簡単に聴くことはできない。生バンドでしか音楽は聴けない。


そんなとき、どうしても自然に目がいくようになる。

木々、花、動物、空、月、宇宙。


今も、大阪に住む友、京都に住む友のことを思う時、

「今、同じ月を見ているのかな」

と繋がりを感じることができる。


月を見る時間は、日常から離れ、距離と時間の流れから解放される。

そういった虚時間をもつ大切さを「芸に游ぶ」という言葉で伝えている。



今日の書は「懼」。




子曰わく、

知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れず



「知」「仁」「勇」

孔子は、数多くの徳目の中でも、特にこの3つは重要な徳だとし、どれかひとつを身につけるのではなく、3つすべてを身につけるように努めることを勧めた。

それはすごく難しいことではあるが、目指すことが大切だと。


知とは、単に知識が豊富だというだけではなく、周りへの配慮や気配りもできることも含まれる。


本物の仁者とは、自分の感情に作用されずに、思いやりの心を常に出せる人

自分が悲しいとき、怒っているとき、他者に思いやりの心で接することができないようなら、本物の仁者ではない。


勇とは、単に勇気があるということではない。

自分で決断できること。そして自分で決断したことを実行できること

それが「勇」である。

そういった勇者であれば、恐れることがないということ。


この3つを修めよと。


いろんなことに興味を持ち知識を増やし、周りへの配慮も忘れないようになれば、迷うことはなくなる。

自分の感情に振り回されずに、常に思いやりの心で接することができれば、心配事はなくなる。

自分で決断し実行できる強い心をもつことができれば、恐れることはなくなる。



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