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執筆者の写真yamashina shigeru

考える

頭の上には柿がなる。

末っ子は、桃だという。



先日の親子論語塾で、もうひとつ心に残ったお話があった。


君子は義に喩り

小人は利に喩る


とても有名な章句だ。

ここで安岡先生は子どもたちに質問をされた。



正しい道と正しくない道


「道を歩いていると、分かれ道があります」

「右側の道には「こちらが正しい道」と書かれた看板があり、左側の道には「こちらは正しくない道」と書かれた看板があります」

 

「その道をよく覗き込んでみると、正しい道はなんだか薄暗く、人の気配がしません」

「正しくないと書かれた道を覗くと、明るくたくさんの人でにぎわっているようです」

 

「さて、どちらの道を選択しますか?」

 

子どもたちを困らせる質問だ。



「では、ここでもう一つ違う質問をします」


「学校から帰ってきて宿題をしようと机に向かいました」

「そこに友達が遊びの誘いにやってきました」


「あなたは、友達の誘いを断って宿題をやりますか?」

「それとも友達と遊びに行きますか?」


これまた子どもたちを困らせる質問だろう。

実際よくあるお話だ。

 


なぜその選択をしたのか


二人の子供がこの質問について答える

A「私は宿題をやります」

B「ぼくは友達と遊びにいきます」


先生「Aさんは、どうして先に宿題をやるの?」

大勢の子供たちは、宿題を先にするのが当たり前だとしゃべっている。


A「だって、もし遊びにいったとしても宿題が気になって、楽しめそうにないです」

A「楽しむためには、まず宿題を終わらせた方がいい」


A「B君はどうして遊びにいくの?」

B「遊ぶためには、友達がいないとできない(ボール遊びなどかな)」

B「宿題はひとりでできるけど、遊ぶのは友達がいないとできないのだから、遊ぶことを選ぶ」

B「宿題は、ひとりでできることだから、遊んだあとでもできるじゃないか」


こんな会話だ。



安岡先生が解説をする。


Aさん、Bさん、どちらの選択肢も間違いではない。

大切なのは、自分で考えた選択かどうか。


自分で考えていない選択だと、「だってお母さんが…」とか言い訳が生まれる。

そうではなくて、自分で考えて選択することが大切だよと孔子先生は言っています。


正しい道を選ぶか、正しくない道を選ぶか。

そのときの自分が考えた理由があるのなら、どちらの道を行っても構わない。


ただし、もし途中で間違いだと思ったら、引き返す。

引き返して、別の道に歩めばいい。

 

この「省みる」力こそ、人間の力だ。


君子は義に喩り

小人は利に喩る


この章句には、そんな意味も含まれている。

義は、自分が考えた選択で、利は他者評価で考えた選択だ。


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