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諦める

執筆者の写真: yamashina shigeruyamashina shigeru

A NEW EARTH

二巡目 第15週 振り返り


これはもう完全にぼくの内側の話になることを前提として言葉に残す。




不幸


末っ子は小学3年で、youtubeやらロブロックスのやりすぎが一番の原因だと思うのだけど、目が悪くなりメガネが必要になった。

妻はそれが悲しく、どうしたらいいのだろうかと相談の電話がかかってきた。

ぼくは、妻の言葉を聞きながらも、頭では、「末っ子とかわいい眼鏡を買いに行くのが楽しみだな」って思っている。

さらに飛躍なんかして、「カラコンとか付けたら、めっちゃかわいくなるんじゃないか」とか。

それは、言葉にせずとも伝わるもので、「あなたに相談することが間違っていた」となる。


多かれ少なかれ、こういうパターンはよく起こる。

「共感力が足りない」

「相手を慮ることを学ばないといけない」

そういったメッセージを受け取ることになる。


こんなぼくの内面で起こる反応を深く考えることをしてこなかったのだけど、今回改めて考えるキカッケになった。


まず思い当たることは。

不安や不幸だという物語を聞かされた時、なぜか、その中にある喜びの種を見つけることが得意なのかもしれない。

そして、いつのまにか、不安の中にある喜びが気になりはじめ、悲しい出来事を聞きながらも、つい笑顔がこぼれるのだ。

これは、不謹慎だと理解してるんだけど、自然に笑ってしまうサイコパスな自分がいる。



問題はここからで。


相手は「マイナスをゼロに戻したい」と思っている。

ぼくの中では「それってマイナスというかプラスじゃない?」って思っている。

これは一見いいことのように思えるのだが、いいと思えているのは自分だけで、相手ではないということ。

ここを全然想像できていないのだ。


そしてどうなるか。

自分の頭の中にある「マイナスではなくプラス」だというイメージを相手に伝える努力を怠るのだ。


喜びの種を相手に渡すことを諦める。

なぜか。


すでにプラスなんだから悩む必要ないじゃないかと、勝手に自己解決してしまうのだ。

なんと身勝手な奴だ!、と言葉にしながら気づく。

不幸の中にある真実、不幸の中にある喜びを伝える必要性を強く感じなくなってしまうのだ。



このことを先日妻に話した。

妻曰く。

「そんなことは、わかっている」

「いまさらというか、知っている」

「問題は、家族と他人で反応を変えるところ」

「他人だと、喜びを伝えようとするんじゃないか」



ハッとさせられた。

妻のほうが、全然ぼくのことを理解している。


家族には喜びの種を渡すことを諦めるにも関わらず、友人からの相談には、一歩踏み込んで、喜びを共有することろまで歩みたいと思う



家族と他人で反応が分かれている理由は何か。


傷つくことへの恐れ、恐怖。

どこから、どこまでを自分だと思っているのか。

自分を大切にしない。

魂を傷つけることをいとわない。


自分とは何者なのかを、全く理解しようとしていないのだ。


解決しているのは自分だけであり、対話と繋がりを恐れている。

巨大なエゴがあることに気づく。



引き金


相手の言葉の中に、一切「喜びの種」を見出すことができないことがある。

それは、誰かを非難する声だ。

特に、共通の近い知り合いに対して。


これは、自分の感情を高ぶらせる引き金になる。



自分の無意識を呼び覚ます引き金は、誰もがもっている。

しかし、引き金と問われていることを混同してはならない


引き金は、呼び水でしかないのだ。

呼び水もすごく大切なことなのだが、呼び水から何に気づくか。

自分の受け持ちは何か。


未完の仕事は何か。


ここは、教えてもらえることではない。

自ら気づいていくしかない。














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