30年
- yamashina shigeru
- 1 日前
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修身を学ぶ会富山
第10講 三十年
きっと人類は、命の時間を延ばす技術を、これからも発展させていくのだろう。
自然の法則に抗い、永遠の命を求める衝動は、数千年前から続いている。
かつてそれは権力者の欲望だった。
強欲ゆえだったのか、あるいは「自分が生き続けることこそが世界のためになる」と本気で信じていたのか。
今では、その欲望は特別な者のものではない。
誰もが抱きうる願いとなり、技術はそれに追いつこうとしている。
だが、その流れの中で、どうしても見失われやすいものがある。
それは、「肉体があることの意味」だ。
なぜそう感じるのかを、論理的に説明するのは難しい。
ただ、ぼくが弓道を始めた理由のひとつでもある。
肉体があるからこそ、痛みを感じる。
肉体があるからこそ、感情が揺れ動く。
肉体があるからこそ、世界は手触りをもって立ち現れる。
それらは、きわめて尊い。
では、なぜ尊いと感じるのか。
それは、おそらく私が五十歳を超え、老いと死を、観念ではなく現実として引き受け始めたからだろう。
四十歳を過ぎたあたりから、肉体は静かに衰え始める。
その実感とともに、「肉体があること」「ただ存在していること」そのものに、価値を見出すようになった。
失われていくからこそ、そう感じるだけなのかもしれない。
そこは、少しきれいごとではない感情は残っている。
森信三さんは、「人生の正味は三十年である」と語る。
真実に生きようとするなら、まず真実に出会わねばならない。
その出会いは、多くの場合、三十五歳から四十歳前後に訪れるのではないか。
そこからようやく、自分の人生を引き受け始める。
仮にその後、肉体が健全な状態で、真実に生きることを貫けたとしても、贅沢に見積もって三十年ぐらいだろう。
つまり、三十年、本気で生ききれたなら、十分なのだ。
この時間こそ人生の正味の時間だ。
老いていく肉体、そして死ぬという現実が、人が本来持つ「美しさ」「やさしさ」「慈しみ」の源だと感じている。
それは、人類という生物の種が守ってきた、かけがえのない宝物だと思う。
しかし同時に、「本当の自分は老いないし、死なない」という感覚も、確かにわかる。
魂と呼んでもいいし、本当の自分と呼んでもいい。
それは、時間にも肉体にも縛られていないはずだ。
有限である肉体と、不滅である魂。
この二つは、一見すると矛盾している。
だが、どちらか一方だけだと、美しいものを美しいと賛美する力は、やがて崩れてしまうのではないだろうか。
野に咲く花に感動する心。
美しいと思うから、美しく世に存在する。
この人類の宝物を磨き、大切に育み、次へと手渡していくための時間。
それが、森信三さんの語る「三十年」なのだろう。


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