朝活大学素読会
いつもの時間
所謂身を修むるには、其の心を正しうするに在りとは、
身忿懥する所有れば、則ち其の正しきを得ず。
恐懼する所有れば、則ち其の正しきを得ず。
好樂する所有れば、則ち其の正しきを得ず。
憂患する所有れば、則ち其の正しきを得ず。
心焉に在らざれば、視て見えず、聽きて聞えず、食いて其の味を知らず。
此を身を修むるには、其の心を正しうするに在りと謂う。
「身を修めるには、まず心を正すにあり」とは一体どういうことなのか。
たとえば、怒りで身が震えているようなときは、正しい判断はできない。
恐れを抱いている時も、正しい判断はできない。
何かに片寄って好んでいる時も、正しい判断はできない。
心配ごとで頭がいっぱいのときも、正しい判断はできない。
心がここになければ、見えるはずのものも見えないし、聞こえるはずのものも聞こえない。
真実を視ることができないし、いのちの声も聞こえないということだ。
そんな状態では、何を食べても味は分からない。
だからこそ、身を修めるには、まず心を正さなければならない。
心は、常に自分の肉体の中にある。
普段はそう思っているが、実は心は未来へ過去へと飛び立ってしまう。
「身を修める」の身とは、肉体+心の状態のこと。
肉体と心を一致させていく。
「イマココ」という言葉はよく使われる。
しかし、「今」を大切にすることはよく語られるが、「ココ」を語られることは、実は少ないように思う。
「ココ」には2つの視点があるのではないか。
この肉体がある場所。
富山にあるのか、大阪にあるのか、車の中にあるのか、自宅の部屋なのか。
この肉体が存在している場所を正しく肯定できているかどうか。
もうひとつは、肉体と心がひとつになっているかどうか。
ぼくらは生きている以上、肉体をもっている。
この肉体があるということと、肉体と心が同じ場所にあるかどうか。
これも大切なことなんだと思う。
肉体から得ることができるセンサーと、心で感じるセンサー。
この2つのセンサーにちゃんと耳を傾けることができれば、正しい判断はできるはず。
センサーが見せてくれているのが、「良心」「良知」。
自分の中にある「良心」「良知」に気づくこと。
ここから始まる。
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