第31講 上位者に対する心得
実は、この感想を書いた後に、ゆっくりと気づいたことがあり、そのことについて記したい。
「上位者に対する心得」というタイトルとその内容。
たとえば、自分の上司が、自分の同期や後輩だったり、能力が自分より劣っているとする。
その場合、どういった面持ちで、上司で関わっていくことが大切なのか。
そういったテーマだった。
森先生は、そういった立場だとしても、正しく上位者に配慮したコミュニケーションが必要であり、社会的秩序が大切だ。
そんなニュアンスのことが書かれてある。
否定するつもりはないが、時代感覚が少し違うのではないか、本当にそれが正しいのだろうか、、、と、素直に受け入れられない心も存在する。
そんな気持ちのまま、感想を書き終えたのだが、、、じわじわと思うことが溢れてきた。
その断片は、次の「第32講 目下の人に対する心得」にもつながっていくのだが。
人は平等である。
たとえば、網を床に広げている時は、平面の2次元であり、上下はなく平等だ。
しかし、網の中心を手で持ち上げると、網は立体となり、上下が生まれる。
しかも、どこをもって持ち上げるか、どこから見るかで、上下は変わる。
この平面の状態から立体になる状態が社会なんだと、森先生は語られている。
「なぜ上下が存在するのか」
人間は、個でありながら社会性の生き物である。
もしかすると完全に平等という社会構造があるのかもしれないが、実際の社会は、上下、前後、左右が存在する。
そこにはやっぱり秩序がある。
年齢や能力と会社組織という視点だけで捉えると、不平不満が生まれてくるが、「家庭」ではどうか。
兄弟関係、親子関係。
不平不満というのは視野の狭さなのではないか、と思えてきた。
視野の狭さといえば、もうひとつ感じたことがある。
人は目の前の置かれたテーマに、盲目的に誘導されてしまうものかもしれない。
つまり、今回のテーマは、上位者にどう振舞うかであり、しかも自分が上位者よりも優れている場合について考えていた。
でも、もし、自分こそ上位者でありながら部下より劣っていることを理解している場合、どんな感情、どんな態度で部下と接することができるだろうか。
人は、社会の中で生きる生き物である。
すると、どうしても上下関係が生まれる。
この上下関係が必要だとすると、どんな意味があるのか。
人は、生まれながら「仁」、つまり、思いやりの心をもっている。
しかし、それは社会の中で少しずつ埋もれていく。
いろんな荷物を背負うことで、一番下にある「思いやり」が表現しにくくなってくる。
そのときに、社会の中の上下関係、前後関係、左右関係。
この関係性こそ、「思いやり」を磨いていくためにすごく大切な要素なのかもしれない。
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