朝活大学素読会
今回から、新たな始まりです。
今日のひっかかりは、「格物致知」
物を格して后知至る。
大学の八条目
格物
致知
誠意
正心
修身
斉家
治国
平天下
のはじまりの言葉だ。
漢字では「物」とあるが、伊與田先生の解説には、「物の一番基本になるのは自分である。自分も物もひとつである。物を格すとは、自己自身を正すこと」とある。
つい漢字のイメージにひっぱられそうになるが、「物」とは自分のことなのだ。
自己自身を正すことがはじまりで、その先に平天下がある。
逆もしかり。
平天下を目指すのであれば、自己自身を正すことに至る。
この「格物致知」をもう少し解像度を高めて考えてみたい。
「格物致知」という「致知」とは主観の徹底であり、「格物」とは客観の徹底にほかならない。人が主観主義の思想を底の底まで考え抜くか、骨の髄まで生き抜くかしたとき、初めて自己の内に見出すことのできるものが真の客観性というものである。(安岡正篤)
この言葉を読書会の中で紹介していただいた。
この言葉のおかげで、一気に「格物致知」のイメージが広がった。
主観を徹底することで、真の客観性に至る。
これはど真ん中名刺のワークショップにも当てはまる。
名刺という客観的であるものを、一度主観のみで捉え考えつくし、生み出していく。
その結果、客観的に自分の今を見つめることになる。
この格物が客観の徹底、致知が主観の徹底であり、それが、陰極まれは陽になり、陽極まれば陰になるように、循環するということから感じたことが2点。
この2点とも、毎朝のニューアース音読会での気づきにつながる。
①ペインボディと正対する。
主観の徹底とは、まさに自分に内包しているエゴやペインボディにも正対することなのではないか。
見た目の主観だけに留まらず、自分にあるペインボディに真剣に向き合う。
向き合うことで、自分の中にある影に気づく。
「影がある」ということに気づいた「自分」がいる。
その「自分」とは誰なのか。
そうやって気づき、考えていくことで、客観的に観察できるようになる。
これこそ、格物致知なのではないか。
②身体と感情の関係
心や思考が身体を通して生まれるのが感情である。
であるならば、身体知といわれる外部感覚や内部感覚のセンサーの声に耳を澄ますこと。
自分の身体が、今何を語っているのか。
その声を聴こうとすることが、自己自身を正すことなのではないか。
そうすることで、自分とは何か。
自分の姿を映す鏡の曇りをとり、本来の自分を映すことができる。
それが格物致知なのかもしれない。
次回は
6月20日7時から開催です。
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