A NEW EARTH
二巡目 第8週 振り返り
ファシリテーターもさせてもらい、毎朝5時からの音読会だけではなく、夜のバージョンもあり、結構盛沢山な1週間でした。
手に汗握った禅僧
ある禅僧が著名な貴族の葬儀を執り行うことになった。参列する王候貴族や婦人たちを出迎えているとき、彼は自分の両手が汗ばんでいるのに気づいた。
禅僧は、これでは真の師たり得ないと、寺を去り修行に入ることになる。
ブレイクアウトルームでの対話。
禅僧は、きっとプロとしての資格はないと感じたのだろう。
では、プロとは何か。
同じルームだった長年中学校で教師をされてきた方に
「プロの教師とは、何ができる存在なのだろう」
と質問をさせてもらった。
すると、とても意外な答えが返ってきた。
「教師として何をできることがプロなのかは分からない。しかし、子どもたちのことが可愛いと思えること。そんな言葉が浮かんだ」
「そう思えない時期があり、そのときは大変つらかった」
その答えを聴き、自分がした質問を少し恥じた。
プロとは何か。
プロにならなければならないと思うこと。
これは、自分は何者かになろうとする行為に近い。
何者かになるより、もっと純粋で素直な想いを大切にすること。
その想いを忘れずに携えていること。
それが、何者かになることよりも、きっと大切なんだと。
さて、先ほどの禅僧。
もし、自分が思う禅僧としての役割になりきるため、つまり真のプロになるために、修行をし直したのであれば、それは、自分と役割を同一化することだったのかもしれない。
そうであれば、自分の至らなさを自覚した上で、寺を去るのではなく、弟子たちと、師弟関係を超えて語り合うこと、繋がり合うことが、必要だったのかもしれない。
役割としての幸せと、真の幸せ
思考
思考から生じる感情
思考が生み出す物語
常に中立な状況
不幸を演じる役割
幸福を演じる役割
不幸を解放するために作り上げる物語
そして、事実
敢えて、ぼくの思考が生み出した物語を語ろう。
少し話は飛ぶのだが、夜の部の音読の箇所のテーマは
「出力が入力を決める」だった。
この時に思い浮かんだのは、湯舟の中のお湯。
湯舟の中で、目の前のお湯を押し出し波をつくると、同じぐらいの力の波が自分に戻ってくる。
出力が入力を決める。
それを体感できる。
10年程前になると思うが、中学生をいろんな大人たちに出逢わせて取材させたときのこと(14歳の挑戦)を思い出した。
ある方に「働くとは何ですか」と中学生が質問する。
「働くとは、はたを楽にすることだよ」
「でも、実は大事なのは、あなたにとっての「はた(傍)」とは、どこまでのことなのか」
「目の前の人なのか、家族なのか、ご縁のある方なのか」
「私は、この宇宙です。宇宙が私にとっての傍です」
「私の仕事は、宇宙を楽にしてあげること」
中学生も、ぼくも、ポカンとした記憶がある。
この世界に境界線がないことは、事実だ。
真の幸せとは。
先ほどの湯舟の話。
波がすぐに戻ってくるのは、湯舟の壁があるから。
では、もし、湯舟に壁がなかったら。
琵琶湖のど真ん中で、波をつくったら、いつ戻ってくるのだろう。
もし、宇宙ほどに広がる世界のど真ん中で、波をつくったら、いつ戻ってくるのだろう。
自分の命がある時間までに戻ってこないかもしれない。
戻ってきたとしても、観察できないほど、小さな小さなエネルギーとして戻ってくるはずだ。
いや、もしかしたら、自分が起こした波が、何かと共鳴して、波が大きくなって戻ってく可能性だってある。
しかし、大きな波になったとしても、その波が自分に戻ってくるとは限らない。
その事実を受けとめた上で、波を起こす。
それが真の幸せかもしれない。
もし自分に信じられないほどの創造力と力があるとするならば。
どこまでも飛んでいくボールを思いっきり投げてみたい。
そのボールが海面に落ちて起こす大波。
その波が一体いつ、どんなカタチで、この場所に戻ってくるのか。
ワクワクして生きる。
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