マイノリティの「つながらない権利」
雁屋 優 著
読了

本書の内容とは全く違うのだが、最近左足の膝裏を痛め、鍼灸院に通っている。
そこは、以前から知り合いの熊野さんが一人で運営されており、何度か名刺も作らせていただいたことがある。
自宅の横に鍼灸院のスペースがあり、中に入ると、静かで温かい空気が流れている。
スタッフがいないということは、熊野さんか、ぼくが生み出す音しかない。
弓道場に通い始めて2年になると、いつ行っても知り合いばかりとなる。
道場では、ぼくも50歳を超えているにも関わらず、大体子どものような扱いになる。
「まだ若いんだから」
「おにいちゃん」
とか呼ばれる。
みんな携帯は持たれているが、日常的にネットを閲覧したり、youtubeを見たり、パソコンを使うという世界とは明らかに違う方々だ。
弓道場の世界
鍼灸院の世界
二つとも、ネットの世界とつながっていない世界だ。
何よりも、手元に携帯は置いているのだが、ネットを使うという理由がどこにもない世界ともいえる。
日常の連続した時間の流れの中で、すごく貴重な時間になっている。
本書に戻る。
心に詰まった箇所を紹介する。
社会は一人の人や、一つの団体が変えていくものではなく、お互いやっていることも知らない、話したこともないような人々が、それぞれ重なる問題意識を持ちながら、自分のできる範囲でやりたいことを積み重ねていくなかで変わっていくものだと考えます。(飯野由里子)
これは、著者と飯野さんとの対談として紹介されている。
同様な内容をTakuramの渡邉康太郎著「 context design」にも、書かれてあったように思う。
確か、誰もが社会彫刻に参加しているのだという説明だったと思う。
ひとりひとりは弱い文脈を携えている。
その弱い文脈と社会にある強い文脈と結び付けていく。
この結び付けをコンテクストデザインが手伝うことで、より積極的に社会彫刻に参加できるようになる。
誰もがクリエイターなのだと。
短いスパンで見れば「つながってない」つもりで生きていても、いつか、どこかで、それぞれの営みが社会に変化を起こし、「つながり」に出逢う。
きっと、「つながらない権利」を主張することが、いつのまにか人を巻き込み、人に影響を与え、結果的に「つながり」を生み出すこともあるのだろう。
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ただ、この考えも、ぼくの中に「つながることは大事なことだ」という思い込みに近い気持ちがあるから、そう思っているだけかもしれない。
マジョリティの中で醸成された「当たり前」を常識とし、その当たり前で社会を見るまなざし。
それが、マイノリティな存在を傷つけることになる可能性もあり、分断を生み出すこともある。
そして、常に妥協を求められるのは、マイノリティ側となる。
妥協を受け入れざるをえないのは、「当たり前」の圧力が大きい。
効率的であろう
コミュニケーション能力をあげよう
つながろう
しかし、その「当たり前」こそ、マジョリティの世界で生まれたものだということに気づけるかどうか。
社会にある機能不全について考えるきっかけになった。
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