朝活大学素読会でした。
今回のここ
所謂天下を平らかにするには、其の國を治むるに在りとは、上老を老として民孝に興り、上長を長として民弟に興り、上孤を恤みて民倍かず。
是を以て君子に絜矩の道有るなり。
上に惡む所を以て下を使う毋れ。
下に惡む所を以て上に事うる毋れ。
前に惡む所を以て後に先んずる毋れ。
後に惡む所を以て前に從う毋れ。
右に惡む所を以て左に交わる毋れ。
左に惡む所を以て右に交わる毋れ。 此を之れ絜矩の道と謂う。
君主には君主としてのよるべき尺度となる道(絜矩の道)がある。
上位に対して自分が嫌だと思うことを、下位に対して自分はしていないだろうか。
下位に対して自分が嫌だなと思うことを、上位に対して自分はしていないだろうか。
前に対して自分が嫌だと思うことを、後に対して自分はしていないだろうか。
後に対して自分が嫌だなと思うことを、前に対して自分はしていないだろうか。
右に対して自分が嫌だと思うことを、左に対して自分はしていないだろうか。
左に対して自分が嫌だなと思うことを、右に対して自分はしていないだろうか。
これをコミュニケーションの尺度となる道である。
絜矩の道を学ぶのはこれで3回目となる。
今回の印象は、人と人との関係性は常に相対的であるということ。
そして、こうあるべきといった中心軸が存在するわけではなく、自分にとっての上下、前後、左右との関係に「恕」の心を忘れずに行動することを説いているように感じた。
自分の立場と相手の立場を逆転させて考えてみる。
二つをひとつとして考えてみる。
あえて中心がないものとしてその関係性の中で考えてみる。
そういった感覚を感じた。
ちょうど、アインシュタインの相対性理論の解説を聞いたところで、それにまさに似ているなって思えた。
当時は、ひょっとして今でも、時間は常に一定に流れている、距離も常に一定だと考えているはずだ。
時空は常に一定で普遍であるにも関わらず、数百年かけて積み上げてきた学説や数式では、説明できないことがある。
それは一体なぜなのか。
その問いに対して、アインシュタインが見出した答えは、「時空は相対的なもの」だということ。
時空は観察者によって変わる。
日常の感覚だと、そんなことがあり得ないことなのだが、それは単に光のスピードが速すぎるから感じ取れないだけだということ。
自分たちが信じ込んでいるものを疑うところから始める。
これはなかなかできないことだ。
納得いただけるかどうかは別として、個人的には絜矩の道と相対性理論がすごく似ている感覚を感じることができた。
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