先日、ソース原理を紹介してくれた石川のコーチの方と対話をする機会を頂いた。
その中で「お花屋さん」の話題になった。
お花屋さんを運営することが厳しくなった時代に、お花屋さんを経営していくことの意味について。
昨年から参加させていただいている読書会。
課題本は「世阿弥 道を極める」(森澤勇司 編訳)。
そこにも「花」があった。
人生で一番大切なことに、最大限の時間をつぎ込めば、ある程度の成果が得られるだろう。芸事の伝承は多数あるが、心から湧き出る気持ちを伝えることは言葉し難い部分が多い。言葉で伝えられない「心」から「心」へ伝える花について伝えているから「風姿花伝」と名付けたのだ。
「あの人には、花があるなあ」
そんな誉め言葉がある。
芸の中にある「花」を言語化する難しさと、それを伝承する難しさ。
見えない世界の話なのにも関わらず、その人の立ち姿には、誰の目にも「花」を感じる。
この不思議。
ふと思い浮かんだのが、毎朝5時から参加させてもらっている音読会「ニューアース」。
この本の始まりも、「花」の物語だ。
一億一千四百万年前のある朝、夜が明けて間もないころ、昇る朝日を受けて一輪の花がぽっかりと開く。地球という星の最初の花だ。すでに何百万年か前から地球には植物が茂っていたが、この最初の開花は植物という生命体の画期的な進化と変容を告げる出来事だった。
地球上で最初に咲いた花は、一体どんな気持ちだったのだろうか。
花を咲かせなくても、植物は増殖できる。
それでもなお、花を咲かすことの意味とは。
花には、独特のカタチがあり、色があり、香りがあり、蜜がある。
これは何のためなのか。
花を咲かせるという戦略は、自然の流れに委ねるよりも、より積極的に、生き物たちと協力し合い、受粉の成功確率を上げること。
蜂や蝶といった昆虫が媒介することで、遺伝的多様性が生まれ、環境の変化に対応でき、種も広範囲に広げることが可能になる。
ただし、この戦略の成功のカギは、花と昆虫が共に進化していくことが大切だということ。
共進化だ。
想像することしかできないのだが、花が存在しなかった世界では、植物と昆虫は、全く別の次元でお互い生きていたはずだ。
どちらかというと、植物にとって昆虫は外敵だったのではないか。
そこからの、自らは動かないという戦略を維持した状態で、花を咲かせること、昆虫と共に進化するという道。
人間に、ここまでの画期的な戦略を思いつくことは可能なのだろうか。
花を咲かせるという戦略は、途方もない思考の転換であり、神秘的だと言わざるをえない。それを難なくやってのけてしまう視座が、自然の中にはあることも驚きだ。
では、花と昆虫の共進化が、どれくらい続いたことで、地球上で花が咲くことが当たり前の世界になったのだろうか。
地球史上初の花の開花から、どれくらいの時間が必要だったのだろう。

最初の花が咲いてから、花が地球上で「当たり前」になるまでには約3000万年から4000万年の時間がかかったと考えられています。(ChatGPT)
3000万年~4000万年。
生物の進化の歴史からすれば、もしかすると長い時間ではないのかもしれないが、人間の時間で感じると、途方もない長さだ。
使用済み核燃料の放射能レベルが天然のウラン鉱物と同じ程度になるまでには約10万年。
それでも10万年だ。
この3000万年以上の時間を花や昆虫がどう生きてきたのだろうか。
きっと、奇跡の連続だったに違いない。
何百回、何千回、何万回、何億回、試行錯誤を繰り返し、色、カタチ、香、果実と昆虫との相性、植物自身の特性とのバランスを図っていったの事だろう。
その試行錯誤の実験を次世代、次世代に繋げながら、少しずつ、少しずつ自ら変化しながら、外の世界も変化させていく。
この奇跡の共進化の時間と、人が花を見て美しいと感じる心は、繋がっているのだろうか。
美、精神性、感情、科学、社会性。
人と花との関係をいろんな切り口で説明は可能だ。
しかし、どの答えも、「なぜ人は花を見て美しいと感じるのか」という根本的な答えにはたどり着かない。
花は自然の一部であり、人間もまた自然の一部です。花を見ることで、私たちはそのつながりを無意識のうちに感じ取り、深い感動を覚えるのかもしれません。(ChatGPT)
「自然の一部であることを思い出させてくれる力」が花にある。
今のところ、この答えが、一番沁みる。

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