いのちの先
- yamashina shigeru
- 9月17日
- 読了時間: 4分
書くひと(3)
神戸市でケアラーズカフェの活動をはじめたスミレさん。
詩集「と、私」を自費出版するなど、書く仕事もしている。
また、「おうち、」というスペースも運営している。
この3つの活動の中で、まず「ケアラーズカフェ」を広めていくための名刺を作りたいという相談です。
スミレさんのinstagram
当初「ケアラーズカフェ」「おうち、」「スミレ」を紹介する3種類の名刺を作る予定だったのだけど、3つをひとつに統一した名刺を作りましょうということになりました。
ちなみに、以前「おうち、」をはじめるときに、ど真ん中名刺を制作しています。
前回からのつづき。
(山科)
感覚的に、「KOBE&RAKU(ケアラーズカフェ)」と「おうち、」と「スミレ(書くひと)」の活動が繋がっているのはわかるが、もう少し解像度を上げて理解したい。
はじまりは「おうち、」だったはずで、なぜその活動を始めたのか、ここからスタートしたい。
ぼくが知り限りの情報をまとめると。
自宅でピアノ教室をしていた。
生徒の子どもたちがやってきます。
子どもたちは、ピアノが上達したいと思ってはいるけど、それ以上に、親でも先生でもなく、自分の気持ちを自由に話せる場が必要としていることに気づく。
ピアノのレッスンも必要なんだけど、子どもたちの話を聞いてあげたい。
これが最初に「おうち、」を始めたときのストーリーだったと思う。
この話には矛盾点はないのだけど、もう一歩踏み込んで聞いてみたいと思っている。
なぜならば。
たとえば、同じようにピアノ教室をしている先生がいるとして、その先生が生徒を観察し、彩さんと同じような課題を感じたとする。
だからといって、誰もが「おうち、」のような場を提供しようと動き始めるだろうか。
ここに、言語化しずらいもうちょと深い意味があるように思う。
内なる声に突き動かされていることがあるのではないか。
(北見)
「おうち、」というスペースはできたのだけど、結局、子どもの居場所として開放できなかったんです。
そこまでたどり着けなかった。
ピアノ教室を通して子どもたちを育てていくことは変わりなくやっている。
それでも、「おうち、」の使い道がずっと分からずにいて。
ただ人にレンタルスペースとして場所を貸すのは嫌。
私がここで何かできることがあるはず。
それを見つけるのに、いまだに迷っている状態。
あそこが活動拠点なんだという確信だけはある。
「おうち、」の名前の最後に「点(、)」をつけた理由は、単なる居場所にすることが嫌だったからです。
成長する場所。
何か見つける場所。
「おうち、」は、自分も含めて最初はリラックスできることは大事だし、癒す場所でもあるのだけど、ただ愚痴を吐く場所ではなく、ひとつ飛び出す場所にしようという気持ちは変わらない。
だから名前の最後に「点」をつけている。
では、何ができるだろうと考えていて、「ケアラーズカフェ」もできるなとか、「本の発行所」にもなれるなとか、後から後から辻褄があってきた感じ。
もしかしたら、ひとり出版社になるのだろうかとか。
結局レンタルスペースになるのだろうかとか。
未だにさまよってる。
(山科)
今の言葉を聞いて「成長」という言葉が気になった。
「成長する場」の成長とは何か。
一般的に「成長」と聞くと、説明する必要もなく、いいことだという文脈で使われる言葉だなと思って。
ただ、本当に成長は必要なのだろうかと。
彩さんの言葉の中で、「自分にはきっと何かできるはずで、その可能性を花開かせていきたい」という感覚は、生命として持っている力だと思うので、それを成長だといえばそうなのかもしれない。
(北見)
私は、「私として」やることは決まっているんです。
私がやりたいのは、自分の命が終わっても、次の命でも達成したいことがある。
それは、私の本が世界中の人の手にわたって豊かになること。
そういうものを書くということ。
今の活動は、それに向かっていくためのすべて。
そのために全部やっている感じがする。

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