昨晩、「冒険の書」を利用した実践型読書会全6回コースが終わりました。
少人数の読書会でしたが、とてもいい時間だったなと思います。
今朝は、朝活「大学」素読会。
古典の「大学」を素読して読み進めながら感想を述べあう会なんだけど、こちらは3巡目に突入して、新たにはじまったところ。
最終回の「冒険の書」の読書会では
人は何のために学ぶのか?
これが大きなテーマとなりました。
ぼくがこの問いをどう感じたかというと、「そもそもこの問い自体が変なのではないか?」でした。
「人は何のために学ぶのか?」という問いには、「学ぶ」ということは、大変なことで、やりたいことかといえば、できればやりたくないこと、そういったイメージがあるのではないか。
もちろん、「学ぶ」ことが三度の飯より大好きという方もいるだろうが、大半の「学ぶ」というイメージは、厳しいことのようなイメージがあるのではないか。
だからこそ、厳しい「学び」なのにも関わらず、どうして学ぶ必要があるのか、何のために学ぶのか、という問いが発生するのではないか。
僕が感じたのは、その「学び」のイメージ自体が間違っているのではないかということ。
人のもつ根源的な欲求に素直に向き合い、「俺は海賊王になる」「こんな人間になりたい」という高い志を抱く。
その志を実現しようと思ったとき、自らどうしても学びたくて仕方がなくなる。
他人から、もうそれくらいにしたら、と止められようが、止まらない。
大谷翔平選手は、野球を学ぶこと、身体を学ぶことを止めるだろうか。
ここで大谷選手を出すのは、ちょっと反則な気もしますが。
探究したくて仕方がない。
前に進みたくて仕方がない。
それが本来の学びなのではないか。
そう捉えると、「人は何のために学ぶのか」という問いそのものに違和感を感じます。
学びとは本来、やみに已まれず、没頭することなのではないか。
ところで、朝活大学素読会の話。
古典の「大学」の最初に、一度は耳にしたことがあるような言葉がでてきます。
大学の八条目といいます。
ぼくの現段階での理解度で紹介すると、
1,格物
物とあるけど、物の始まりは自分である。
格物とは、自分を正すこと。自分を理解していくこと。
2,致知
自己理解が進むと、生まれながら持っている良心に気づく。
美しいと感じる心、慈しむ心。
誰に教わったわけでもないけど、確かにある大切な良心・良知がある。
それに出逢う。
3,誠意
良心・良知が理解できてくると、喜怒哀楽といった感情が正常になってくる。
自らの感情を欺く必要がなくなる。
4,正心
喜怒哀楽が正常になってくれば、外からの刺激に、その都度心が揺れ動くようなことはなくなっていく。
心が正しくなっていく。
5,修身
心が平常心を保つことができるようになれば、何かに執着したり、偏ってしまい、正常な判断ができなくなることは、なくなる。
身心、または、思いと言葉がひとつして、正しく実践できるようになっていく。
6,斉家
身が修まれば、家の中での上下左右の役割を理解し、慮ることができるようになる。
また、家族にしっかりと自分の意見を伝え、理解し合える関係性をつくることができる。
7,治国
家での振る舞いが、そのまま社会の中での振る舞いとなり、社会という関係性の中で、自分の明徳(才能)を明らかにしていくことができる。
また、皆がそうなってくれば、自然と国は治まる。
8,平天下
国が治まってくれば、それまでに学んだ古の明徳を世の中に伝えつづけていくことで、平安な世の中になっていく。
さらに、「大学」では、本と末があるということを伝えている。
本が乱れてしまっては、末は治まらない。
家をととのえたいと思うのなら、身を修めないといけない(修身)。
身を修めるには、自分を理解するところ(格物)からはじめないといけない。
そこを疎かにしたまま、家はととのうことはない。
最初の問いに戻る。
人は何のために学ぶのか?
読書会で集まった仲間たちから、こんな言葉を聞くことができた。
「学ぶことで、自分を深く知ることができる」
ここに「大学」の学びを加えるならば、
学ぶことで自分を深く理解し、生来持っている良心に出逢う。
すると、感情、心、身が整い、自分の才能(明徳)が世界にどう役立つか見えてくる。
それが自然に発揮できていけば、世の中は平安になる。
つまり、学ぶことは、世界の平和のためなのかもしれない。
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