お金と「Being」の関係
- yamashina shigeru
- 9月3日
- 読了時間: 5分
マネーバイアス
ピーター・カーニック 著
8番目の嘘
お金は政府や中央銀行が作っている
実は今手元に「マネー・バイアス」の本がなく、記憶のある内容で感想をまとめたい。
まず、「お金は政府や中央銀行が作っている」という言葉に含まれている感情に近い意味を考えると。
お金の製造工場の現実の話とかではなく、お金とは自分たちとは全く無縁の、国を治めている権力者が自由勝手に作っているものでしょ、ということなんじゃないかな。
ここまで思っていなくとも、なんとか、そんなようなものだという感情があるんじゃないか。
自分たちにコントロールしようのない上の世界で作っているような。
でも、そもそも「お金」とは何かをこれまでの学びを含めて考えると、
・お金は循環してはじめて価値が生まれる
・お金は社会の信頼とつながりの中でしか意味をもたない。
はずだ。
つまり、「お金=政府のもの」と考えること自体、全くの誤解なのにも関わらず、「お金は政府がつくって権力をふるっている」と思い込んでいる。
きっとここが違うのだろう。
では本来はどうなのか。
本書にはこんな表現がある。(正しくないかもですが)
自分の名のもとにお金の製造と流通がされているのに、その力を放棄している。 と同時に、最終責任が実は自分になることを知りません。
一度読んだだけでは、うまく理解できない内容だ。
「自分の名のものに?」
ここをChatGPTの力を借りて解説してもらった。
「自分の名のもとにお金が製造・流通している」とは?
銀行でお金を借りるとき、実際には「元から存在するお金」を受け取っているわけではなく、あなたの信用(=名義)を担保にして新しいお金が発生しているんです。
銀行はあなたに「貸した」と同時に、社会に「新しいお金」を生み出す。
つまり「お金が存在する根拠」は、政府ではなく あなた個人 にある。
言い換えると、お金はあなたの存在を基盤に発行されているということです。
まさに「Being」、存在こそがお金を生み出している。
「最終責任が実は自分にある」とは?
銀行が「お金を貸す」とき、実際にはリスクを最終的に引き受けるのは借り手です。
つまり「お金が信じられるかどうか」の最後の責任は政府や銀行ではなく、そのお金の背後にある個人=あなたが負っている。
私たちは「お金を国が作っている」と思い込んでいるけれど、 実は 「自分の信用がもとになってお金は生まれている」。
そして 「だからこそ、最終責任も自分が負っている」。
それを知らずに「政府や銀行がやってくれている」と思っていることが、「自分の権限を放棄している」ということなんです。
改めてまとめると
日々使っているお金は、実は「国が勝手に作って配っている」わけではない。
たとえば銀行からお金を借りるとき。
そのお金はもともと金庫に入っていたわけではなく、私たちがサインした瞬間に「信用」を根拠に新しく生まれます。
つまり「お金の存在理由」は、国ではなく、借り手である私たち一人ひとりの信用にある。
では「最終責任が実は自分にある」とはどういうことか。
もし返せなければ、そのお金は不良債権となり、信用は失われます。
つまり、銀行や政府が守っているように見えて、最後にそのお金を支えるのは、私たち個人の責任なんです。
このことを忘れてしまうと、私たちは「お金は国や銀行が作るもの」と思い込み、本来自分が持っている力を手放してしまう。
つまり、本質的な問いは
「あなたは自分の信用をどのように育てていきたいですか?」
「The Power of NOW を取り戻すためには?」
ここまで考えてきて思いついたのは2点。
ひとつは少子化問題だ。
なぜ少子化が問題になるのか。
それは資本主義経済が、人口が増えることを前提として考えられているシステムっぽいところだろう。人口または経済が成長しない世界を否定している。
しかし、そんなことを言っても、日本は人口が減っていくだろう。
この人口減と経済成長ということを考えたとき。
お金は、個人の存在及び信用が生み出しているということを理解するなら、数も大切なんだろうが、人と人とのつながりを深めていくことでも、信用や信頼を高めていくことができるのではないか。
それは結局、社会を成長させることになるのでは。
The Power of NOW
Joy of Being
の力を呼び覚ますことがとても大事だと感じる。
もうひとつ。
ヤマシナ印刷が発行している「はちみつうか」
これも似ていて、「はちみつうか」は物々交換でお渡ししているのだが、もうひとつルールがある。
それは、「誰かに同じ価値を提供する」ことでもいいということ。
つまり、社会にエネルギーが流通させてもらえればいいのだ。
つまり、ぼくがAさんに「はちみつうか」を渡すとする。
Aさんは、同等の価値だと思うモノやサービスをぼくに提供することになるのだが、ぼくにではなく、Aさんの身近な誰かに、自分がもらった価値と同等のやさしさを分けてあげてもいいというルールだ。
なので、ぼくからすると、あの人に「はちみつうか」を渡したいとおもったとき、そこに物々交換が発生するしないに関わらず、自由にお届けすることができる。
ぼくに同じ価値が戻ってくる必要がないので。
結構、心が自由になれる。
これは銀行とお金の発生の関係に似ていて、「はちみつうかを食べてみたい」という方が現れた時点で、「はちみつうか」が発行できることになり、それが最高にうれしかったりする。
今年の「はちみつうか」は、残り30個ぐらいなのだけど、ぜひとも、ほしい方に送りたいし、発行したい!
その先にある笑顔を思い浮かべながら送りたい。
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