無条件の存在
- yamashina shigeru
- 8月2日
- 読了時間: 5分
マネーバイアス
ピーター・カーニック 著
6番目の嘘
私が存在しているのはお金のおかげだ
タイトルだけを読むと、当たり前なんじゃないかと思える。
むしろ、「私が存在しているのはお金のおかげだ」と思っている人は、ほとんどいないんじゃないか。
お金がなくたって、自分は生きているのは当然だと。
しかし、本当にそうだろうか。
ひとつ思い出すことがある。
ずっと疑問を思っていたことだ。
それは、少子化問題を取り上げるニュースで、対応策として、子育て世代への金銭的支援を話題にするときだ。
テレビのアナウンサーは「子どもを産むのを躊躇する大きな問題は、出産費用と子育て費用だ。その負担を軽減することで、子どもを産み育てたいという人を増やすことができる」と解説してくれる。
毎回このようなニュースを聞くたびに、モヤモヤする。
確かに子育て中の金銭的支援はめちゃくちゃありがたいし、もし子ども手当がなかったら、生活がままならないことも知っている。
しかし、それとこれは全く別問題のように思えるのだ。
つまり、お金に余裕があれば、子どもを産むんだっけ?という疑問だ。
ついでに言うと、もう一歩手前の結婚もそうで、「就職して、ある程度お金がたまったら結婚する」という考え。
これも、同様にモヤモヤする。
お金があるから、結婚を決める。
お金があるから、子どもを産む。
ぼくは現実本当に厳しい状況に置かれたことがないので、気軽に発言できないことは理解できるが、それでも何か違うように思う。
お金と命と存在が、同一直線上で語られている。
老後のお金問題もきっと同じなのだろう。
「お金があれば、老後は安心だ。」
半分は事実なのだろうが、お金と存在を繋げて語られているように思う。
私が存在しているのはお金のおかげだ。
この言葉は、まるっきり嘘だと思っているにも関わらず、そうではない挙動に振り回され続けているように感じる。
結婚、出産、老後をお金と結び付け、存在するためにお金が必要だと考える。
この思考の流れに対し、意識的に否定する立場なのだが、だからといって、あらゆる場面で同様の態度ができるだろうか。
できない。
たとえば、自分が会社の社長で、経営がうまくいかず倒産の危機になったとする。
そんな場面だと、お金と自分の存在を天秤にかけるに違いない。
お金がなければ、自分なんて存在する価値がないんじゃないかと。
世の中では多くの方がそれを悩み、自ら命を絶つ選択をする人がいる。
この6番目の嘘は、頭で考えれば、当たり前すぎるように思えるのだが、現実社会と大きな乖離があるように思う。
本文中にこんな言葉があった。
存在は、生まれた瞬間からあなたに備わっていて、人生に必要なすべてのニーズを満たしてくれます。
この言葉の意味をAIにサポートしてもらった。
存在(Being):あなたという“命”の根源的な在り方。思考や能力、役割の前にある、“ただ在る”という状態。
生まれた瞬間から備わっている:存在は、努力や条件によって獲得するものではなく、すでに与えられているという意味。
すべてのニーズを満たしてくれる:外側から得ようとしなくても、内側に「満たす力」「必要な知恵・感性・導き」がすでにあるという信頼。
「生きるためにはお金が必要」「自分は稼げなければ価値がない」といった“幻想”を暴くことが今回のテーマである。
お金があるから生きられるのではなく、存在しているからこそ、生きるための道は自然と開かれていく。
という逆転の視点を提示してくれているのです。
つまり、 「自分の存在こそが、必要なつながり・もの・導きを引き寄せていく」という、人間存在への信頼です。
たとえば、あなたはすでに可能性のすべてが詰まった「種」。
土に埋もれていても、雨や太陽や時間が来れば、自然に芽が出て、必要な栄養は“出会って”いく。
すでに「内にある」から、それを満たす環境と出会うだけでよい。
外から水を買わなくても、雨は降ってくる。
たとえば、あなたの存在は、深い地中から湧き出る「泉」。
表面が乾いていても、奥には尽きない水脈がある。
泉は、「存在する」だけでまわりに潤いを与えます。
たとえば、生まれたばかりの赤ちゃんは、何も生産せず、稼がない。
その存在だけで、周囲の人を動かし、つながりが生まれ、すべてが与えられる。
存在には「経済的価値」以上の力がある。
ふと、「シュレディンガーの猫」を思い出す。
量子力学の有名な思考実験?だ。
箱の中にいる猫は生きているか死んでいるか。
確率は50%。
量子力学的には、猫は生きているし、死んでいる状態。
観測者が対象物を観測して初めて存在が確定するということ。
私たちは、人生という“箱”の中に入れられたシュレディンガーの猫のようです。
誰かに“評価”されない限り、自分の価値を感じられない。
収入や成果といった“観測者”によって、やっと「自分は生きている」と信じられる。
「自分らしい」という言葉の「らしい」には、この観測者の存在が含まれている。
けれど、本来の私たちは、箱の中でも確かに存在している。
生きている、愛している、感じている。
その“ただ在る”力にこそ、本当の価値がある。
これは日本のアニメの世界観にもつながる話のように思えた。
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