ほう、そうか
- yamashina shigeru
- 2 日前
- 読了時間: 3分
A NEW EARTH
二巡目 第17週 振り返り
IS THAT SO?
ほぉ、そうか?
ある未婚の町娘が妊娠した。
腹の子の父親は誰かと、娘の父親は厳しく問い詰めた。
相手は恋仲となった若者であったが、結婚を許してもらえないと思った娘は、苦し紛れに嘘をついた。
白隠禅師の子である、と。
怒った父親は、白隠禅師の寺に乗り込み、生臭坊主と罵った。
白隠禅師は、一言、「ほう、そうか」と言ったのみであった。
娘が赤子を産むと、父親は白隠禅師のもとへ行き、お前の子なのだからお前が面倒を見ろ、と言って、赤子を押しつけた。
白隠禅師は、一言、「ほう、そうか」と言ったのみであった。
高僧としての白隠禅師の評判は失墜した。
法話を聞きに寺に通っていた人々も去ってしまった。
一年後、良心の呵責に耐えられなくなった町娘は、真実を話した。
娘の父親は、白隠禅師に謝罪し、娘の子だから赤子を返してほしいと申し入れた。
白隠禅師は、一言、「ほう、そうか」と言って、赤子を返した。
今回感じたのは、2つ。
自分に起こる出来事の必然性をどこまで信頼できるか。
ハンドルを自分が握っているか。
ブログを書くときに思い浮かんだのは、子どもたちが向き合うことになった事件のこと。
道の選択
強さとやさしさ
お金の流れ
具体的に言葉を残すことは控えるが、目の前に起きている出来事をどこまで必然・ベストとして信頼できるのか。
ここが問われたことを思い出す。
次は、ハンドルを握るということ。
白隠禅師のようなとんでもないエピソードまでいかなくとも、同じ出来事なのにも関わらず、「ほう、そうか」と言える時と言えない時があるということに気づく。
言えない時とは、どんな時か。
まず思い浮かんだのは、自分が、何かのチームなのか組織なのかに属していて、自分だけの判断で責任をとることができない状況に置かれたとき。
自分と組織との関係性がすごく重要なポイントになるなと思えた。
人はひとりでは生きていることはできないはずで、ひとりだと思っていても、必ずなんらかの集団の中で生きているはずだ。
だからこそ、人と組織との関係性が重要になる。
どこまでの関係を、自分だと認識しているのかも影響しそうだ。
自分が乗っている車のハンドルは、誰が握っているのか。
それが大きなポイントなのではないか。
しっかりと自分がハンドルを握っていることができていれば、ある程度の突発的な出来事に対しても「ほう、そうか」と言える。
と…、ここまで考えてきて。
いや、違うな。
自分がハンドルを握らず、助手席や後部座席にいたとしても、場合によっては「ほう、そうか」と言えるかも。
それは、ハンドルを握っている人との関係性と、自分と他者の境界線をどこだと認識しているかにもよるのだろうか…。
どちらかというと。
誰かの車を運転させられている状態。
車も自分のものではない。
行く先も、自分が行きたいところではない。
ただ、支持されるまま、自分がハンドルを握り、運転している状態。
そんな状態のときは、「ほう、そうか」は言えないはずだ。
大事なのは、自分の影(シャドー)ではなく、自分がハンドルを握ることだと思っていたけど、そうではなさそうだ。
運転させられている車が、高級車か中古車かでも、違う反応をしそうだ。
その反応は、エゴに左右されるに違いない。
いつのまにか他人の車のハンドルを握っているのだけど、その車が見かけは高級車で、なんかいい気分になっている状態とか?
話を戻すと。
ハンドルは握ってなくても、自分の車に乗車できていること。
ど真ん中を生きていること。
それが大事。
いつのまにか、他人の車に乗っている可能性があるのではないか。
ぼくは、他人の車に乗せられ「ほう、そうか」と言えない環境に置かれることが、すごく嫌だという感情があることに気づいた。
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