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執筆者の写真yamashina shigeru

よくがんばりました。

よくがんばりました。

喜多川泰 読了



いろんな切り口で語ることができる一冊。

 

少しネタバレになります。

ご注意を。

 


心は投影図でしかない。


そんな言葉がでてきます。

 

つまり、投影図とは、どこから光を当てるか、どの場所から見るかで、全く違うカタチの影として投影される。

もしかすると、投影される地面の状態によっても、その影は、違う景色になりかねない。

長方形に見えるものが、本当は、円柱のカタチかもしれない。

凸凹と歪んだカタチに見えているのは、単に、投影しているキャンパスに問題がある可能性もある。

 

この投影図こそ、人の心だと。

 

つまり、人が見ているのは、本体ではなく、自分の目、自分の脳、自分の立ち位置でみた投影図でしかなく、それに対して、あーだこーだと感じている。

しかし、同じ本体を違う人が見れば、全く違う評価や価値として投影される。

 

人の心とは、そんなものだと。

 

人は見たいものしか見ない。

これは2000年以上前から言われていることだ。

 

まずはそれを理解すること。

自分の見ている景色が絶対ではないということを意識すること。

本当に本体について知りたいのであれば、いろんな視点で観察する必要があること。


しかし、物語を生きる人間の脳にとって、世の中をメタ認知することはすごく難しく、脳を酷使することなのだろう。

 

さて、では。

誰よりも近く、誰よりも長い時間接している、または誰よりも因果が深い関係性、つまり家族同士の投影図はどうだろうか。

 

家族となると、他人と比較にならないほど、一方向の投影図になりそうだ。

一番よく理解しているはずだと自覚していることも、大きな錯覚の可能性がある。

 


そして、もし本体が消えてなくなり投影図だけになったとしたらい。

つまり、家族の「死」。


本体がなくなることで、初めて自分が思いこんできた投影図と、投影図をもとに作り上げた自分の物語が違う可能性があるのではないか、ここに気づくチャンスをもらえる。

本体があるから気づけないことがあるはずだ。


だから死が貴いのかもしれない。


このチャンスは、本当に限られた人に与えられるものかもしれない。

投影図の思い込みに気が付くだけラッキーで、多くの場合、気づくことなく、時が過ぎていくだけなのではないか。

 

では、なぜ面倒な自分の心にスポットを当てる必要があるのか。

正直、どちらでもいいではないか、そう思う人もいるはずだ。


自分を生きる。

ど真ん中を生きる。

 

そんな生き方をしようと思った時、実は、この思い込んでいた投影図が大きなブレーキになっている場合がある。

質が悪いのは、本人がそのブレーキに気づいてない場合が多いということ。

また、ブレーキではなく、むしろアクセルになっている可能性だってある。

それはそれでややこしい。



人生のテーマは、乗り越えない限り、何度でも自分の人生の中に立ちはだかってくる。

 

「血」と「育ち」から来るアクを取り除く。

そのための「教え」と「実践」、「師」。

その大切さも伝えてくれている。

 

いろんな自分の感情に触れることができる一冊だ。

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