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アイデンティティを手放す

執筆者の写真: yamashina shigeruyamashina shigeru

調和への想い(2)


滋賀県にお住まいのオシタユミコさんとの対談。

共通の友達の話題からはじまり、オシタさんの活動について聞かせていただきます。

前回からのつづき。


ブログはこちら


感じるままに… 美しいモノを

そのままに… 楽しんで

いろいろ表現していたら…

色あそび & 空間調和創作で

内なる スペースも 自然に 調えていく Artist として

活動する流れに…!




(山科)

アーティストを生き方にしたときに、2つの壁があるのではないか。


ひとつめが、オシタさんが先ほど語られたように、踊りを他人に見せることを前提とした瞬間に、何か意図が入り込んで本来の表現がなくなることをどう捉えるかという壁。

もうひとつは、最初の壁を超えて、表現をして多くの方に見てもらい、かつ、お金を稼ぐプロとして生きるときの壁。


最初は「趣味でいいわ」と思っていた表現活動から、一歩踏み出したときに現れる一つ目の壁。

壁を超えるか超えないかは、どちらが正解というわけではない。

これは、どちらでもいいはず。


問題になるのは、ぼくらが生きている社会では、超えることが正しい、しかも効率的に超えることが好ましいという、無意識の圧力がかかってくること。



(オシタ)

今回対話のきっかけになったのが、facebookの投稿にあった自分軸と他人軸で悩んでいる就活中の大学生のお話。

この話と今の話は繋がっているように思う。


自分軸がいい、他人軸がいいという思考ではなく、それを超えたところに本物があるのではないか。


趣味かプロか、選ばないといけない分かれ道だと思うと迷いになる。

どちらでもいいし、他人がプロだと思ってもらえればそれでいい。

プロだと思っていただいた方からお金をいただく。

環境が育てていくのかもしれない。



(山科)

確かに。

外部環境と自分との熟成期間というのは、個人差もあるし、決まっているわけでもない。

味噌や漬物の発酵に似ている。


しかし、社会の圧として熟成期間を短縮することに価値を求めようとする。

この流れに乗っかった瞬間、完全に熟成しない状態で社会に出されることもある。



今回の大学生のテーマは、本人は自分の内なる声が聞こえている。

まだまだじっくり熟成したいという気持ちがある。


しかし、自分が属している環境、特に就活中ということもあり、「自分軸を生きる」という生き方が一見輝いて見える。

ここに心が揺れ動かされる。


ただ、「自分軸で生きる」ことが心地いい人もいるのは確か。

つまり、言葉や表現に問題があるのではなく、その言葉を誰が語るか、言葉と語り部が一致しているかが、大事なのではないか。


無理をして言葉をつかっているか、そうでないか。


(オシタ)

自分もまさに、アーティストとして生きなければならない、もっとアナーキーに振れなくてはいけないのではないかと悩んでいたこともある。


調和癖、整理する癖があり、自分自身を小さくまとめてしまっているのではないか。

もっと解放しなければ、自分を表現しきれていないと感じていた。

だからプロになれなんだと、自己理解をしていた。


「何をしている人ですか」と問われると、胸を張って「アーティストです」と言えない。

自分は何者なのだろうと。


それこそ、流産を繰り返したときは、「結婚しても子どもが生まれない人」というアイデンティティを創り上げてしまった。

子どもができない人に寄り添うこと、相談にのること。

そこに自分の価値があると思っていた。



そこから、子どもができたときに、自分は何者なんだろうと。

子どもができるということは嬉しいこと、楽しいことには違いないが、自分の存在価値、アイデンティティがなくなった感じになった。


すると、自分の年齢的な衰えに目がいくようになってしまった。

年取っているのに、若いお母さんより子育ては下手だと。


この何者かにならなければと、もがいた先に、踊り出した。



過去に作り上げた繋がり(パイプ)を活かしきれない。

踊り出したのだけど、プロになるわけでもない。

この葛藤が、しんどさが自分の表現物に出ているのかなと思ったんだけど、、、。



(山科)

それは、全然大丈夫でした。

ある意味、「天然」っていう感じ。

オシタさんの写真からは、しんどさは感じませんでした。



人は自分のアイデンティティを創り上げる。

このアイデンティティを失い、新しい心の声が違う方向を指し示した時。

これまで培った過去のアイデンティティが壁になり、自分の心の声に素直に従えない状態。


これは人生の中で、何度もやってくるのだろう。

そのときに、これまで苦労して育て上げたアイデンティティを捨てることができるかどうか。

手放すことができるか。

それが問われるのだと思う。



つづく。

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