A NEW EARTH
二巡目 第4週 振り返り
この「内なる身体」は、ほんとうは身体ではなくて生命エネルギーで、形と形のないものとの架け橋だ。
改めて、身体があることの意味を考える。
内なる身体を感じているときには、実は自分を身体と同一化していない。また心とも同一化していない。
同一化していない状態、「いまに在る」状態だって思えるのはどんな時だろう。
これまだ思考に依存することになるのだけど、考えてみた。
一つ目が、内なる身体の声を聴くということ。
内なる身体の声を聴く、感じる、味わう、耳を傾けている時、確かに「いまに在る」感覚になる。
エゴは、内なる身体の声を聴けない。
弓道で、弓矢を思いっきり張った状態で、じっと的を狙っている姿勢を「会」という。
全身を使って弓と身体が一体になっている状態で、心身が充実し、さあ矢を放とうとするまでの間のこと。
その「会」を5~6秒使って心身を充実させ、今だという瞬間を待つのだが、なかなか、5秒も待てない。
がんばって3秒ぐらいか。
この「会」が短いことを早気(はやけ)といい、必ず直さなければならない。
新年の気づきは、この「会」の時間と、神社で参拝するときに目を瞑って手を合わせている時間が一緒だということ。
同じ心だし、同じ時間の流れを感じる。
「会」の難しさは、あきらかに「いまに在る」ことを自覚できながらも、的があることで、常にエゴが入り込む余地があるということ。
年末に鑑賞した地球交響曲第9番で気づいた「自然の声に耳を傾ける」こと。
これも大きな気づきだった。
この内なる身体の声と自然の声、内と外、小宇宙と大宇宙の声に耳を澄ますこと。
この2つの声を結んだ先にあるもの。
それに惹かれる。
二つ目が、気づきがある時。
対話だったり、誰かの言葉だったり、頭に浮かぶ声が、呼び水となり、ふっと別のどこかから沸き起こる気づき。
その気づきを得た瞬間、自分の中にある広いスペースの部屋に誘われるような、鍵が拓いた感覚を得ることができる。
ばっとアイデアが沸き起こる。
この気づきがある時は、「いまに在る」。
気づきは、思考の延長線上にあるのではなく、ぱっと異世界に転生させられたような感覚を伴う。
我が家では長男の影響もあり、アニメとお笑いにハマっている。
二つの共通点にもつながる。
ほとんど無意識だが、機能不全、狂気と呼べるような日常を独自の文脈でとらえ直し、予期もしない気づきを与えてくれるのが、アニメでありお笑いだ。
注意しないといけないのは、気づきを通り越して、評価やジャッジとして捉えてしまうこと。
三つ目は、繋がりかな。
繫がりを感じている時は、確かに「いまに在る」。
妻と朝ランイング中の何気ない会話。
「ちょうど私も思っていたところ」という感覚。
言葉にまだなっていない感覚が伝わってきた瞬間。
ただ、この3つともすごく「あわい存在」だなと思える。
一歩間違えると、執着になり、モノや思想への同一化になる。
執着といえば、自分は一体何に執着しているのだろうか。
今週ひとつ思い当たった感覚がある。
見えない世界をどう現実世界につなげていくか。
これは20代前半からずっと感じていたこと。
湧きあがった想いを実現させるかどうか。
これを外の世界に頼る癖。
キーワードや想いの断片を少しだけ世に発信する。
SNSがあるおかげでそれは容易にできる。
この断片が、誰かに届く、反応が生まれる。
それを一度待ったうえで、次のピースを世に発信する。
これがぼくの思考の癖のひとつだ。
これを無意識に、現実世界同士の中でしてしまうことがある。
それが不要な歪みを生むことがある。
それに気づいた。
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