ハタラクとは
- yamashina shigeru
- 6月23日
- 読了時間: 4分
マネーバイアス
ピーター・カーニック 著
26番目の嘘
お金は出ていっても いずれまた入ってくる
これは嘘かどうかという以前に、
「お金を出せば、また入ってくる」
という考え方の奥にある心の動きを説明してくれているように思う。
もし、
「与えれば得られる」
「寄付すれば豊かになる」
という計算が心のどこかにあるなら、その行為はすでに欠乏や恐れから始まっている。
本当は与えているようでいて、受け取ることを目的にしている。
だからこそ、かえって欲しいものから遠ざかってしまう。
たとえばワールドカップの後、日本人サポーターがゴミ拾いをするニュース。
世界から称賛される。
もちろん素晴らしいことだと思う。
しかし同時に、どこか興ざめする感覚もある。
ゴミ拾いそのものではない。
ニュースになった瞬間に、何かが変質してしまうような感覚だ。
寄付にも少し似たところがある。
ぼくは寄付そのものが嫌いなわけではない。
しかし、
「寄付してください」
と言われると、少し身構えてしまう。
なぜだろう。
ひとつには、日本人の「働く」という感覚の中に、もともと社会貢献が含まれているからかもしれない。
生活のためだけではない。
自分のためだけでもない。
誰かの役に立つこと。
社会を支えること。
その感覚が、仕事の中にすでに組み込まれている。
だから、
「社会貢献のために寄付を」
と言われても、
「いや、すでに日々の仕事の中でやっている」
という感覚がどこかにある。
まだまだ僕自身が小さな人間だということは自覚しているが。
ど真ん中エディットワークでは、自分の仕事から見えてきた課題や喜びとのつながりを大切にしている。
だから、目の前の人との関係性の中から自然に生まれる応答には、喜んで力を注げる。
しかし、そのつながりが見えないものに対しては少し距離を置いてしまう。
それは善意がないからではない。
むしろ逆で、より強く応答として動きたいからだ。
ここで思い出したのが、ネガティブ・ケイパビリティである。
一般には、「答えの出ない状態に耐える力」と言われる。
しかし、それは単に堪えることではない。
違和感を違和感のまま抱えながら、いのちの声を聴くこと。
そして、聴こえてきたものを現実に実践すること。
その力ではないか。
寄付への違和感もそうだ。
ニュースへの違和感もそうだ。
すぐに善悪で判断しない。
正しいとも間違っているとも決めない。
その違和感の中にとどまり、本当に動こうとしているものは何なのかを聴く。
そこから行為が生まれる。
稲盛和夫さんの言葉を思い出した。
「動機善なりや、私心なかりしか」
僕たちは結果ばかりを見てしまう。
しかし、本当に問うべきなのは結果ではなく動機なのだろう。
その行為は恐れから生まれているのか。
欠乏から生まれているのか。
それとも、本当に内側から湧いてきたものなのか。
田坂広志さんの言葉も思い出した。
「目標を達成します」
と強く宣言するほど、心の奥では
「失敗したらどうしよう」
という恐れが大きくなる。
すると行為は目標に向かうようでいて、実は恐れに反応する行為になってしまう。
お金を出せば入ってくる。
寄付すれば豊かになる。
目標を掲げれば成功する。
どれも一見前向きな言葉だ。
しかし、その奥に恐れがあるなら、行為は本当の自分から離れていく。
だから著者が言う
「ありのままの自分を愛すること」
とは、単なる自己肯定ではないのだと思う。
恐れや欠乏や違和感を消そうとせず、そのまま抱えながら、いのちの声を聴き続けること。
そして、その声から生まれた行為は結果を保証しない。
お金が戻ってくる保証もない。
成功する保証もない。
評価される保証もない。
それでも行わずにはいられない。
春に種をまき、
夏に育ち、
秋に実り、
冬に休む。
自然がそうであるように、人生にもその時々に必要な季節がある。
本当に大切なのは、お金が戻るかどうかではない。
今この瞬間、自分はどこから行為しているのか。
恐れからか。
欠乏からか。
それとも、いのちの声からか。
そう考えていくと、
「働くとは何か」
「仕事とは何か」
という意味そのものが、少しずつ変容していくように思える。

良い記事ですね。 私はいつもそれに迷いながら、止まらずにいます。 形は見えないかな?と思っています。