ジミー
青海エイミー 著
読了
ふと、フェイスブックの投稿で出会った本。
一生懸命生きること。
体温を調節してくれて 心臓を動かしてくれて 瞬きもできる。
おしっこもでるし おなかもすくし 眠くもなる。
誰もが、細胞ひとつひとつが、一生懸命に生きている。
この言葉ほど誰に対しても平等だと思えるコトバはないのではないか。
人はどんなに気をつけていても、相手をどこかでジャッジしながら生きている。
相手をジャッジし、自分をジャッジし。
これは属人的な性質というわけでは決してなく、ぼくらが生きてる世界はもちろんのこと、ホモサピエンスとして、どうしたってジャッジをする習性があるようだ。
以前ポットキャストで聞いた話なので、定かではないが。
文化による言葉の違いはどのように生まれるか。
たとえば、「犬」という言葉はどのように生まれたのか。
それは、「犬」と「それ以外」を分けた時に、「それ以外ではないものが犬」なのだ。
人間は、かならず、「あるモノ」と「そうじゃないモノ」に分けることで、世界を認知しようとしてきた。
ただし、どんな価値観で分けるのか。
ここが文化によって違うだけであって、その違いに対して優劣は存在しない。
つまり、ぼくらはどんなに訓練を受けようとも、ホモサピエンスである以上、常に「分ける」ことを脳が処理し始める。
あたたかいものと、そうじゃないもの。
うつくしいものと、そうじゃないもの。
ありがたいものと、そうじゃないもの。
知っていることと、そうじゃないもの。
世界を分けることで、理解を深めていく。
もし、「犬」と「犬以外のもの」を分けることをしなければ、目の前に犬が歩いていても、見えないだろう。
河川敷をランニングしているときの風景。
いっぱいの雑草が茂っている。
ぼくは雑草の名前も区別も分からない。 だから、僕の目には緑っぽいものでしか映っていない。見えていない。
もしも、雑草のひとつひとつの名前、特徴、匂い、食べられるかどうか、、雑草博士が河川敷を走ったら、見えている世界は違うのだろう。
人間は、常に「分ける」を通して世の中を見ている。
一生懸命生きること。
古典の「大学」では、「至善に止まる」という言葉が最初に書かれてある。 良い悪いを超越した真理を理解するということだ。
どうしても世の中を理解しようとしたときに、「分ける」行為をする人間でさえ、分けることができない真理というものが存在し、それを学ぶこと。
古典はそういった学びなのだろう。
一生懸命じゃない生き方はない。
みんな一生懸命生きているのだ。
この言葉からみた世界は、分ける世界ではなく、平等な世界なのではないか。
果たして自分は、この視線で世界と接することができているだろうか。
そんな問いかけを頂いた。
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