A NEW EARTH
二巡目 第1週 振り返り
乱雑にメモとして残す。
おもしろがるとは、対象から距離を置いて、考え方や概念を頭のなかでもてあそび、同意したり反論したりすることだからだ。
「ありがとう」と言えることのすごさ。
在ることの大切さ。
死は存在するのか。
あらゆる物質を構成しているのは分子であり原子である。
分子も原子も、その集合体である個体が死んだとしても、変化するわけでもなく、それまでどおりあり続ける存在のはず。
では、死とは何か、意識とは何か。
「原罪」 罪とは射手の矢が標的からそれるように的から外れることだ。したがって、罪とは的外れな人間の生き方を意味する。
ど真ん中名刺のテーマと同じ。
ふつうの状態が、機能不全の状態だとして、一体どんな「原罪」があるのか。
すでに自分のなかにある善を発見し、その善を引き出すことでしか、良い人間にはなれない。だがその善を引き出すためには、意識に根本的な変化が起こる必要がある。
自分のなかにある善を発見していくことに、向き合いつづけている人
静かな人
柔和な人
表面的な活躍をしている人ではなく、静かに佇み、時を大切に生きている人
その価値に気づいていく。
ヘレンケラーの人生
目が見えず、聴こえはず、話せない。
その中でどう社会で生きるのか。
言葉、知識、礼儀、慣習、常識ある営みを身につけ、活躍していく。
晩年は、宗教を重んじるようになる。
目と耳と声がない世界で生きるということ。
それでも心地よく仲良く最期まで生ききることをしようとしたときの「礼」は、正しいことなのか、ほんとうの人間の姿とは何か、改めて原罪とは何か。
「絶対」という言葉をどう溶かすことができるだろうか。
宗教とスピリチュアルの狭間にあるもの。
「予測できない」ことを理解するあり方。
予測できないということは、直線的でもなく、変化もする、答えはない。
そのときに大切になることは「問いを持つ」こと。
よき問いを持つ。
エゴは解体される運命にある。
自分はどんなアイデンティティに固執しているのだろうか。
ヤマシナ印刷を継ぐもの。
山科家の長男
男、父、息子であること
これも固執しているアイデンティティ。
2つの気づき
12月9日
妻の誕生日の前日、朝5時すぎから、心地よく淀川をゆっくりと朝ランしていた。
そのとき突然妻の携帯電話が鳴り、妻の父から連絡が入る。
「おばあちゃんが階段から落ちた。」と。
すぐに救急車を呼ぶように指示をして、二人で現場まで走る。
約3kmぐらいをできるだけ早いペースで走り、現場に到着。
おばあちゃんは、自力で歩ける状態で、救急車で病院へ。
妻「一緒に付き添ってくれてありがとう」
ぼく「いや、早いペースで走ったことがすごく心地よかったよ」
妻「そうやろ、たまに早いペースで走るといいよね」
と。
この会話がなんともうれしかった。
妻と息子の間が乱れた。
長女は、長女らしく、場を読むことよりも、常に私らしくあることを大事にしている。
家では、どんなことがあっても自分のペースを崩すことはあまりしない。
それは普段は、親目線でみると、「ちょっと考えて」と思うことはたびたびある。
しかし、息子の機嫌が落ち込んでいるとき、そんな状況も意に介せず、長女はペースを崩さない。
息子が食べたご飯の食器を洗い、かたずけてくれている。これは逆に不思議な行動。
なんか、親子では推し量れない、兄弟間のつながりもあり、ペースを崩さないからこそ、少し不穏な空気があるときは、それが希望となり助けとなる。
心から長女に「ありがとう」と思えた。
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