14歳からの哲学
池田晶子 著
10 他人とは何か
自分と他人。
ここにどんな隔たりがあるのか、それともないのか。
言葉の不思議。
言葉とは「A」と「A以外」を分つときにラベルとして生まれる。
カラスとカラス以外、お茶とお茶以外。
「A」または「Aという言葉」が存在するのは、「A以外」が「ある」からだ。
もし「A以外」が「ない」のであれば、「A」という言葉は不要になる。
つまり「A」が存在できるのは、「A以外」のおかげだといえる。
では、「自分」とは何か。
「自分」が「ある」のは、「自分以外=他人」が「ある」から、「自分」があるのだろうか。
そんなことはないはずだ。他人がいなくても「自分」はある。
言葉の特性、世界を分けるという視点がなくても、「ある」もの。
そのひとつが「自分」。
いや、いろんな例を考えても「自分」以外、ないのではないか??
そう考えていくと、「自分」は絶対的な存在だ。
この「自分」が目で見て、手で触って、耳で聞いて認識している世界というのは、その「自分」の身体を通じて認識していることになる。
この身体は、ひとりひとり違うもの。
同じ「目」だとしても、視力、色の具合、光の捉え方、どれをとっても同じ人はいないはずだ。
つまり、自分が見ている、自分が知っている世界は、自分だけのものであり、誰とも共有できるわけではない。
誰もが絶対的存在であり、ひとりひとりが違う認識をしている世界の住人だということになる。
そう考えていくと、「他人」という言葉が、あまりにも意味のない言葉に思えてくる。
「他人」という存在はなく、全員が「自分」なのだ。
その「自分」。
「自分」が深いところで聞こえてくる声、感じることは、「自分」だけのものだろうか。
それも違う。
深いところでは、数多の「自分」と繋がっているはず。
ひとりひとりが個性的で絶対的な存在と同時に、深い部分では、ひとつになっている。
メビウスの輪。
どこまでが自分の内側で、どこまでが自分の外側なのか。
これもまったく定義できない。
人の身体は、量子力学的にみれば、99.9%は空っぽなんだし、口と肛門、皮膚にある穴を考えると、人間の身体は、ドーナツのような状態になっているともいえる。
では、このほぼ空っぽで、内も外もよくわからない構造の中で、「自分」はどこに存在しているのか。
自分の内側?自分の外側?
それても違う場所?
自分と他人は分けられるのか。
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