他者の存在
- yamashina shigeru
- 2 日前
- 読了時間: 3分
対話を通じてまちの未来をデザインする(2)
シニア×学生でハッピーな社会を
「あなろまっち」の共同代表でもある高橋冴くんとのど真ん中名刺、リニューアル。
▼あなろまっち
「あなろまっち」とは、シニアと学生がありのままの姿で交流することが出来るイベントを開催しております。
シニアと学生が「持ちつ持たれつ」の関係を実現するために日々、大学の垣根を越えた運営メンバーで次回イベントへの作戦会議を行っております。
NPOの活動を続けていく難しさについて雑談しています。
動画にはなっていませんが、雑談のつづき。
(高橋)
時代が変わり、世の中のレコードに対する需要が減った。
それでも、レコード店を続けている方は存在する。
商店街のお店もそう。
続けたい人が続けている。
大学の授業で新湊の商店街にインタビューにいった。
70代、80代のほとんどの方は、「今は小遣い稼ぎでやっているが、体力が続かなくなればやめたい」と話される。
ただ、2、3件は、意地でもつづけていくと。
「地元でお店をすることが夢だったので、地元が衰退してもやりつづけていく」
(山科)
人が何かを始めて、やめるとき、
「需要がなくなった、必要とされなくなった」
「お金が回らなくなった」
など、万人が納得いく理由を語る。
しかし、それは本当の理由じゃないのではないかと思うことがある。
万人が納得いく理由を語れば、「残念だったね」と慰めてもらえる。
でも、その人が抱えていた想いや情熱が、完全燃焼できたのだろうか。
万人が納得できる理由が存在することで、そっちが主役になってしまい、無意識に夢が食われている状態。
辞めるという決断は、自分がしているのだが、自分がしているわけではない状態。
自分が応援していた活動がなくなるとき、実際はどうなのかはわからないが、情熱は完全燃焼できたのだろうか、本当の自分が判断したことなのだろうか、この2点が気になるのだと思う。
(高橋)
あなろまっちは、イベントのお手伝いをすることがある
やっぱりそこで感じるのは、そのイベントは中核メンバーがいるから成立していること。
私は、地元の放課後カフェをNPOの方と一緒にしている。
これは、私のような頻繁に地元に帰ってきてくれて、高校生の居場所が大事だとおもっている大学生という存在が、放課後カフェを成立させている。
そう考えていくと、「何を成し遂げたいのか」「何でやりたいのか」をはっきりしないと続けることが難しいのかもしれない。
(山科)
人の気持ちを折ってしまった理由が、科学技術の発展や社会制度の変化の場合がある。
論理的には、科学技術が発展し、これまで課題だと思われていたことが解決できてしまったとする。
だから、課題解決をするために存在していた私たちは解散します。
これは、一見当たり前のことで、むしろ喜ばしいことだと評価されるだろう。
それでも、ぼくは思ってしまう。
そこに存在していた情熱は浄化できたのだろうかと。
もし、「あなろまっち」のように、価値観の違ういろんな人と対話ができる環境があれば、まったく別な答えを見つける可能性があったんじゃないか、と。
(高橋)
あなろまっちも、メンバーだけで対話をしていたら、もうとっくに終わっていたはず。
各々のメンバーが、いろんな人に相談する。
外部の人が、あなろまっちの活動の意義を教えてくれる。
すると、自分たちの活動の情熱が再燃できる。
あなろまっちを外から応援してくれる人の存在が、すごく大切。
視野が狭くならないから、続けることができている。

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