ニュー・アース
エックハルト・トール 著
国家や人種とペインボディ
日本の国にある歴史的に積み上げてきた集団的ペインボディの痛みを和らげる手段として、仕事に没頭するという傾向がある、そんな記載があった。
もちろん、そういった側面もあるのだろうが、「道」のつく習い事が多くあることも大きな要因なんだろうと感じる。
剣道、柔道、弓道、茶道、華道、香道、書道、
「道」は、集団的ペインボディを和らげる力になっているのかもしれない。
万葉集に「磯城島の大和国は言霊の助くる国ぞ真幸くありこそ」という歌がある。
大和の国は言葉に霊力がひそんでいる国だ。 私が今、こうして祈っているのだから、効き目がないわけがない。 無事帰っていらっしゃるに違いない、と海路の無事を祈った歌。
言霊の国であるということも、ひとつの側面では、ペインボディを和らげる方向に進めたのではないか。
国家とペインボディという視点については、大きな視点で現実的に身体感覚で感じることは今のぼくには難しいなと感じた。
世界に目を向けたことがないことも要因だし、そこにあまり興味を抱かないこともあると思う。
ただ、身近で考えると、5月に珠洲に視察にいったときのことを思い出される。
撮影はできなかったのだが、珠洲市街地までの道のりで一番気になったのは、森の風景への違和感。
杉を中心とした人工林なんだが、明らかに木がやせ細っている。
何か森全体に視座を広げても、そこに力を感じないのだ。
なんとか自然の中のすばらしいところを発見しようと見渡すのだけど、自然の雄大さ、豊かさを感じることができない。
何かが欠乏しているような世界がずっとつづく。
珠洲市街の厳しい現実以上に、一番気になった点がこれだ。
戦後から今につづく、取り残された里山に引き継がているペインボディ。
ここにすごく心を痛めたのだろう。
人と自然との関わり。
地域経済とグローバル経済。
人口減少、限界集落の課題。
いろんなテーマがそこにある気がした。
あなたのペインボディのどれくらが国家や人種のそれであって、どれくらいが個人的なものかは、実はどうでもいい。どっちにしても、いまの自分の内なる状況に自分で責任を取らなければ、それを乗り越えることはできない。
ぼくが見たペインボディがあると感じた景色には、確かに誰も責任取ろうとしなかった結果なのかもしれない。
責任とは、自分で考え、自分で未来を選んだからこそ生まれるもの。
つまり、本来自分にあるはずの責任を、自分の手元に取り返さなければならない。
「哲学」をする、とは、そのためにもある。
そういった言葉を最近読んだ。
自分で考え、選ぶから、自由と選択を手に入れることができる。
さて。
ぼくにとって、この珠洲までの景色から感じた身体知は、何のためにあったのだろうか。
もう一歩深めていくと、15年以上前のヤマシナ印刷株式会社の風景を思い出される。
まさにペインボディが露出してしまった姿がそこになった。
病院のベットでチューブに繋がれ、ただ横たわるしかない状態の姿が、会社の姿だった。
その課題を「承る」。
ここから、ど真ん中名刺をつくる物語が生まれることになる。
Instead of blaming the darkness,you bring in the light.
気づき、「いまに在る」という力。それは、闇を非難するよりも、光をもたらすべきものである。
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