余白と選択肢は本物か
マネーバイアス
ピーター・カーニック 著
29番目の嘘
お金は重要ではないが、あると人生を楽にしてくれる
僕たちは、お金について、
「お金があれば自由になれる」
「お金があれば自立できる」
「お金があれば安心できる」
「お金があれば幸福になれる」
そんなふうに考えているところがある。
もちろん、お金があれば、生活上の不安が減ったり、できることが増えたりする。
だから、お金があることで人生が「楽になる」ことは確かにある。
ただ、「お金は重要ではない」とは、「お金なんて必要ない」という意味ではない。
お金は、自由そのものではない。
自立そのものでもない。
安心そのものでもない。
幸福そのものでもない。
お金は、それらを生み出す可能性を持った「手段」のひとつだということ。
お金があれば、嫌な仕事を断れるかもしれない。
時間をつくることができるかもしれない。
学びたいことを学べるかもしれない。
誰かを助けることもできる。
そういう意味で、お金には「余白をつくり、選択肢を増やす力」があるように思える。
でも、本当にそうなのだろうか。
本当に、お金が余白をつくっているのだろうか。
本当に、お金が選択肢を増やしてくれているのだろうか。
もしかすると、そう見えているだけなのではないか。
お金があることで、選択肢が増えたように感じる。
お金があることで、自由になったように感じる。
お金があることで、安心できるように感じる。
けれど、「本当の豊かさ」と繋がっているのだろうか。
お金がつくっているのは余白ではなく、「余白があると思わせてくれる感覚」なのかもしれない。
お金を増やすために、どんな選択をしてきたのか。
お金を失わないために、どれだけの不安を抱えているのか。
本文には、
「お金があると人生を楽にしてくれる」という信念は、私たちを不安に導く以外の何物でもない
と書かれていた。
「お金があれば安心」という信念は、必ず「足りない」を生む。
100万円あれば安心だと思っていたのに、100万円貯まると、
「老後にはもっと必要かもしれない」
「病気になったらどうしよう」
「子どもの教育費もある」
と考える。
「お金があれば安心」という信念を持つほど、「まだ足りない」という感覚から逃れられなくなる。
これも、見落としがちだが、ひとつの罠のようにも思える。
自己欺瞞という言葉も、本文には何度か出てくる。
自己欺瞞とは、簡単に言えば「自分に嘘をつくこと」。
「自分はどう生きたいのか」
「何を大切にしたいのか」
「何を恐れているのか」
「本当は何をしたいのか」
そういった問いと向き合うのは簡単ではない。
だから、「もっとお金があれば大丈夫」という答えを選ぶ。
人生のテーマを、お金の問題に置き換えてしまう。
本当は人との関係の問題なのに、お金の問題にする。
本当は自分の生き方の問題なのに、「もっと稼げば解決する」と思ってしまう。
本当の問いから逃げるためにお金の問題を利用する。
そういった視点をもっていないだろうか。
今回の音読会で、頭に浮かんだのは二人の話だった。
どちらも、都会から地方へ移り住んだ方だった。
一人は、地域で暮らす高齢者の力になりたいという思いを持っていた。
できるだけ無償で人に関わりたい。
資本主義経済の中に取り込まれすぎず、自分の手の届く範囲で、人と関わりながら暮らしたい。
家族とともに地方で暮らし、一般的な「安定したキャリア」とは少し違う生き方を選んでいる。
僕は、その生き方や選択を、とてもいいと思っている。
その人には将来ありたい姿がある。
それは、投資だ。
世界の成長企業や成長産業に投資し、そこでお金を生み出す。
そして、そこで得たお金によって、お金に対する不安をなくす。
そのうえで、地域でのボランティアや人との関わりを続けていきたい。
そんな未来を描いているという。
では、今の暮らしに不満なのかと尋ねると、
「幸せです」
と答えた。
もう一人は、都会で長くNPOを立ち上げ、スポーツに関わる仕事をしてきた人だ。
自分で組織を立ち上げ、20年近く活動を続けてきた。
長い時間をかけて、組織を育て、活動を継続してきた人だ。
その人が地方へ移住し、今度は地域の特産品を活かした新しい事業を始めようとしている。
その背景には、これまでの仕事が、年齢を重ねるにつれて続けにくくなるという特性がある。
だからこそ、スポーツとは別の分野でも収益をつくっていきたい。
そう考えて、新しい仕事を始めようとしている。
とても合理的な判断だと思う。
ぼくにはないお金の知識やリーダーシップの力がある。
僕は二つの話に違和感を覚えた。
しかし、二つとも、一般的には「正しい判断」に聞こえるのではないか。
一人目は、投資によって将来のお金の不安をなくし、やりたいボランティアを続けようとしている。
二人目は、今の仕事ができなくなる未来を見据えて、今のうちに別の収益の柱をつくろうとしている。
どちらも将来を考えている。
どちらも家族や生活のことを考えている。
どちらも社会との関わりを大切にしている。
だから、「それはいいですね」と思う人のほうが、きっと多いはずだ。
それなのに、僕の中には違和感が残った。
一人目の話は。
自分の手の届く距離。
自分の目で見える世界。
自分が実際に人と触れ合い、関わることのできる範囲。
僕から見て、そういう「手触りのある世界」を大切にしている人が、自分の目では見ることのできない世界の成長によって、お金に対する安心を得ようとしていること。
地域のお年寄りと直接関わる。
目の前にいる人に手を差し伸べる。
自分が暮らしている場所で、人と一緒に生きる。
そういう世界と、世界中の成長企業に投資し、将来のお金を増やしていく世界。
このふたつの世界はつながるのか、または繋がらなくていいのか。
これは、単に僕の理解が足りないだけかもしれない。
もう一歩深い対話が必要なのだと思う。
もう一人の話を聞いたときには、別の違和感があった。
これまで20年近く、人と関わり、組織をつくり、活動を続けてきた。
自分で何かを始め、それを続けてきた実績もある。
それなのに、新しい事業を始める理由を聞いたとき、
「今の仕事は年齢的に続けにくくなる」
「別のところで収益をつくらなければ」
という未来への不安が強く感じられた。
いや。
それ以上に、ほんとうの話として聞こえてこなかったのが違和感の正体かもしれない。
その奥にある、より個人的な気持ちがあるように思える。
また、『大学』に、「大学の道は、明徳を明らかにするに在り」
という言葉がある。
自分の中にある唯一無二の力を社会の中で明らかにしていく。
自分は何のために生まれてきたのかを深く問い、カタチにしていく。
その視点が、まだ語られていないように感じたのかもしれない。
もちろん、これも僕の受け取り方にすぎない。
結局はもう一歩深い対話が必要なのだと思う。
二つの話を聞いて、改めて思ったのは、「お金をどうするか」という問題ではないということ。
自分がソースになって始める。
自分の内側から生まれたものを、現実の世界に差し出していく。
そこから人との関係が生まれ、価値が生まれ、その応答としてお金が返ってくることもある。
そう考えるなら、
「お金があれば、これができる」
「お金があれば安心できる」
という問いよりも、その前にある、
「自分は何をしたいのか」
「自分は何を大切にしたいのか」
「自分は何者として、この世界に関わりたいのか」
という問いに向き合う必要があるのではないか。
自由、自立、安心、幸福。
それらをお金に預けてしまうのではなく、自分自身の人生から生み出していく。
お金が余白をつくってくれる。
お金が選択肢を増やしてくれる。
お金が自由を与えてくれる。
本当にそうなのだろうか。
お金を得ることで増えたように見える選択肢の裏側で、何を失っているのだろう。
お金によってつくられたように見える余白のために、どれだけの時間を使っているのだろう。
お金によって得ようとしている「安心」は、本当に安心なのだろうか。
二人の生き方が間違っているわけではない。
むしろ、どちらも十分に合理的で、社会的にも理解されやすい選択だ。
それでも、自分の中に残った違和感。
その違和感は、自分とお金の関係、またはお金との距離感が関係していることは確かだ。
つまり、違和感こそ自分の課題なのかもしれない。
ここは、まだまだ自分として向き合いきれていないテーマなのだろう。

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