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余韻を残す

第3講 人生二度なし


「人生二度なし」

と、言葉を投げかけられ、この言葉がいかほど身に染みているかを考えた時、常に意識しているつもりでいても、まだまだできていない自分を自覚する。


人生二度なしという言葉からは、今生きているこの瞬間を大切に充実したものにしようと思えるが、それだけでは足りない。

最初からそのものの全体の相を見通してかかる必要があるということ。

そして、肉体だけではなく精神をも十分に生きるということは、死後に余韻を残せるかどうかだと。

見通すことと、余韻を残すこと。

この二つを考えた時、血のつながる子どもだけのことをおもえばそうだが、それが血のつながりのない友や仲間、さらには、自分の住んでいる土地にまで視野を広げ、全体を見通し、かつ、余韻を残すほどの生き様を考えているかどうか。

 

自分の器について省みることができた。

果たして自分はどうだろうか。

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