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地獄とは他者である

  • 執筆者の写真: yamashina shigeru
    yamashina shigeru
  • 5 日前
  • 読了時間: 4分

真理の話をしよう(7)


mari.art.philosophia. の米倉真理さんとのど真ん中名刺づくり。


哲学カフェ・哲学対話

心理学に基づく数秘セッション

アート・執筆などの表現活動 を行う。


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前回からのつづき




米倉さんが考えた自分の活動を紹介する文章はこれ

さまざまな対話の場づくりや表現活動を通して、自己・他者への理解と寛容さを深め、よりよい社会への変容を目指す拠点

この文章を軸としながら、対話を進めます。



(米倉)

わたしは、変化をしていくということがベースの人間だと思っている。

変わっていく、揺れる。


水や海のように、カタチのないものに惹かれている。

水や海は、力強いし包容力がすごい。

それはカタチが変われるから。


変化する自分を許す


最近、自分を許すことに向き合うことがたくさんある。

変化する自分を許すからこそ、私のことを一言で説明するなんてできない。



自分がやりたいことをやる。

でもそれに舵を切ることが、涙がでるくらい怖い。


では、なぜ怖いのか。


それを言語化したい。

他者にではなく、自分に自分を説明したい。


昨日の私と、今日の私は違う。

それを自分に伝えたい。



(山科)

変わりゆく自分を許す怖さに立ち向かう

こんなイメージだろうか。



(米倉)

私はこっちの道だろうと思っているのに、そっちに行けない。

そっちに行くと地獄に落ちるというイメージが沸き起こる。w



(山科)

サルトルの言葉

地獄とは他者である

を思い出した。



(米倉)

他者とは自分のフィルターで作っていると考えるならば、地獄すら自分でつくっていると言えるのかもしれない。



(山科)

他者からどう見られいているのか。

表面的な関係性が地獄であり、機能不全かも。



(米倉)

しかし、それに気づいてしまえば、豊かな世界に変容するのだと思う。



(山科)

変わりゆく自分を許す怖さ」をもう少し細かく見ると。


変わりゆく自分を許す。

許すからこそ、イマココの自分の欲求に自由になれる。

では、自由だから動けるか。

ここで改めて「怖さ」の存在があることに気づくのではないか。


(米倉)

怖さは、「痛み」から生まれてきていると思っている。


自分が自分の思うように動いたら、何が起こるのか。

想像すると、地獄に落ちると感じた。


ではなぜそう思ったのか。


幼少のころ、母親に連れて行ってもらった地獄の展示会がある。

その出来事自体というより、そのとき、大人から適切なフォローがなかったことで、そのまま「痛み」が残っている。


周囲の大人から、視野の広げ方を教えてもらえるかどうかで、痛みとして残るか、勲章として残るかの違いになるのではないか。


でもそこにも善悪はなく、「痛み」があるから、手当ができるし、自分を磨くことができる。

傷ついた自分を、今の私が迎えに行って癒してあげれば、また前に進める。



「自分を許す」「自分を理解する」とは、わたしにとって「愛」なんだなと。


私は主観で生きることを私に許した。

私が私を許せば許すほど、他者を許せる。


なぜ許したいか。

それは愛したいんだと思う。


自分を愛することは、他者を愛することに近づく

だから、自分を理解して自分を愛していきたい。



(山科)

今、真理さんが伝えてくれた自分が実際に経験した痛みもあるし、社会に受け継がれてきた痛みもあるのだろう。


子どものころの痛みを聞いてくれる人は、社会にいると思う。


しかし、魚が水の存在を理解できないのと同じで、自覚しようもない漠然とした痛みも存在する。

その痛みを語り合う人も場もない。



(米倉)

社会が継承している痛みを語り合う場がないのは、資本主義社会の中ではメリットがないからだと思う。


それこそ、気にしなければいいのだけど、本当はある「何か」に目を向けていくことが、よりよい社会の変容へつながっていくのでは。



ここまでいろんなテーマを深堀りしながら語り合い、米倉さんのど真ん中名刺の肩書は「哲学者」でもいいのではないか、というところまで進んだ。


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