冒険の書
孫泰蔵 著
読了
一度手に取って読むのをやめたんだけど、著者がこの本を解説されている動画を見て、改めて読もうと決めた本。
長男が高校に進学しないと宣言したとき、いろんな感情はあったけど、その中でも、「父を超えたな」って誇らしくもあり、羨ましくもあり、敗北感のような感情が沸き起こった記憶を思い出した。
本書は、すごく広い範囲をまさに冒険のように語っていく内容になっている。
気になってところをピックアップしながら、少しだけ感じたことを記したい。
本来、「遊び」と「学び」と「働き」はひとつのものだったのに、それらがまったく別のものだと分けられてしまった結果、すべてがつまらなくなってしまった。
大人と子どもを分けることからはじまり、いや、人間は常に「分ける」ということをすることで、社会を認識してきた。
学校の中で、「休み時間」が設けられたことで、「遊び」と「学び」が分かれ、「学び」と「働き」と「遊び」が別物として分けられていった。
休み時間を設けることだって、はじまりは、いつも愛や善なのだ。
そこからなぜか、想定外のことが起こり始める。
ここに生まれる矛盾をメタ認知できるかどうか。
それが人類のテーマでもあるのだろう。
ちなみに、ど真ん中名刺は、まさに同じで。
「仕事」と「社会貢献」と「ワクワク」が分かれている。
本当は、ひとつだったんじゃなかったっけ?
または、仕事×社会貢献×ワクワクな生き方って選択してもいいはずだよね。
それを思い出すための名刺だともいえる。
すごく共感する部分だ。
人種差別をなくす動きは、1950年代アメリカの公民権運動がきっかけになった。女性差別に関しては、1980年代の国連決議で世界に広まった。 しかし、子どもの差別は「まあ、それは区別されてもしかたないよね」と考えている。 「しかたがない」 これこそ差別の最たるものです。子どもの差別こそ、「人類最後の差別」なのではないか。
この視点は、ぼくにはなかったなと気づかされた。
「子どもを信じる」
もし、この言葉を使うのなら、その前提として、「子どもだから仕方がない」という視点を一度解放しないといけない。
子どもを信じきる大人になる。
これがぼくの志でもあるのだが、まだまだ道は遠いなと教えられた。
学びを楽しく豊かにするために、「評価」ではなく、何があるといいのだろう。 「Give honest, sincere appreciation.」デール・カーネギー (誠実に、心をこめて、相手の良さを認める) appreciationとは、湧きあがった感情とその感情が生まれるプロセスを観察し、「在り難さ」を味わい、感謝の気持ちをもつこと。
このしっかり自らの感情を観察し、相手への感謝の気持ちをもってくれる人がいることで、クリエーターや学ぶ人は励みになり、エネルギーにかわる。
評価という一方通行のモノサシではなく、人と人の間に、エネルギーの好循環が生まれることが大切なんだろう。
資本主義の世界観では、「やりたいこと」の定義を、「自分の商品価値を上げるような(お金になる)ことであり、かつ、自分が本当にやりたいこと」だと、とらえている。
大人が子供に「やりたいことは何?」と質問するときに、暗黙のプレッシャーとして、上記のような世界観で質問しているのではないか。
そのプレッシャーは、当然、子どもに伝わっていく。
間違いということではないと思うが、すごく制約条件の強い問いになっている。
もし、「学び」と「遊び」と「働き」が区別されてない教育であれば、この「やりたいことは何か」という問いも、全く違うものになるはずだ。
本来はワクワクする問いであるにも関わらず、苦痛な問いになっている。
これは、ど真ん中名刺をつくっていても、同じ課題を感じる。
学ぶとは真似ることである。 人間は生まれた時は、誰もが与えられることしか知らずに成長する。 ということは、人間は、人に与えることを真似る。 人に分け与えることは人間の本性なのでは。
give and given.
これで社会はうまく回るはずだ。
お金の歴史を「コテンラジオ」で学んだときに、物々交換からお金が生まれたわけではないことを知った。
もうひとつ前の段階があった。
それが、「贈与だけ」の関係性で成立するコミュニティだ。
困っている人がいる、だったらその人にとって必要なモノかサービスを無償であげればいい。
それだけの関係性で成立するコミュニティだ。
個人的に、そんなコミュニティに戻ることがいいとは全く思わない。
どちらかというと、いろんなコミュニティが同時に成立する社会であり、いつでも自分の所属するコミュニティを変えることができればいいなと思う。
情報量がすごく多い本だったので、うまくまとめることもできないけど、とても興味深く読むことができた本でした。
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