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執筆者の写真yamashina shigeru

座右の問い



10年以上変わらないぼくにとっての「座右の問い」がある。

座右の問いとは、仕事の中で多くの選択を日々していくことになる。

そのときに、自分の軸がぶれないように自分自身に問う言葉だ。

それが


「先義後利で判断しているか」


これは10年近く前にツイッターが広がり始めたときの衝撃と、その時出逢ったぼくの人生を変えた方のアドバイスもあり、この言葉が強烈に胸に響いたときからだ。

 

あ、子どものころから夢に描いてた世界が来るのかなという希望と、現実を考えた時、振り回されないようにと自分に問い続けることにした言葉だ。


ただ、「義」をどう理解するか。

ここも大きなテーマなように感じている。


義とは、正義という熟語があるように正しさを指す言葉でもある。

正しいか、正しくないか。 これだけだと、自分にとっての正しさのモノサシは何かということが問われる。

若干、周りの環境に左右される要素も多い。


もちろん、目の前にいる方に誠を尽くすということも、義を考える上で大切なことだと理解している。


もう一歩踏み込むとするならば、

正しさということになると、その時々で変化する確率も高い。

そうであるならば、 「美しさ」という自分自身の感度を基準とした問いを立てるのはどうだろう。


美しさには、自分にとっての正しさという判断も含まれているように思う。

さらに、左脳的正しさだけではなく、右脳的であり洗練されてはいるが曖昧さと心が反響する感じが好きだ。



ど真ん中エディットワークの中でも、課題のひとつとして、各々の座右の問いを言語化してもらっている。

そのときの座右の問いの説明でも 「正しさよりむしろ自分にとって美しいとは何かをイメージして問いを立ててほしい」 「自分にとって笑顔が美しいのか」 「心がワクワクしていることが美しいことなのか」 など。


ただし、判断基準を設けることで、よりスムーズに選択できるようになるが、効率化のためという視点にとらわれていくと、間違った世界にいきそうだ。

  であるからこそ、美しさみたいな、自分発信であり、かつ、余白がある中から問いを立てる。

そうなると、完成をベースとした「座右の問い」自体を日々正しくチューンナップしていくためには、知識量も大事なのだが、自分自身の感性を磨く、ほこりがつかないように心がけることこそ大事なのかもしれない。


これは人間の領域だ。

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