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心地いい場所とは

9月2日
読了時間: 5分

先日、弓道場に、僕の知らない若者が練習に来た。

「こんにちは」

と、軽く挨拶を交わす。





弓道場自体は、誰でも利用できるオープンな場所だ。

僕自身、この道場を利用している人全員を把握しているわけではない。

たとえば、高校時代にこの道場を利用していて、数年ぶりに長期休暇で地元に帰ってきた大学生もいる。

ちょうど弓道教室が終わったところで、新しく弓道を始めた人が、そのまま練習していることもある。

最近では、「40年ぶりに弓を引きに来ました」という人もいた。

そういう人たちは、名前も顔も知らない。


だから、気にはなりつつ自分の練習を続けていた。

ところが、先輩がその若者に話を聞いた。


富山大学の学生で、普段使っている道場が使えないため、こちらの道場に来たらしい。

しかも、この道場を利用するのは初めてだった。


それを聞いた先輩が、

「であるならば、まず挨拶が必要なんじゃないか」

と、少し苛立った。


考えてみれば、もっともなことだ。

若者は玄関で「こんにちは」と挨拶はしたものの、自分の名前や所属、どこから来たのか、誰かの紹介なのか、そういったことは何も伝えていなかった。


そして、道場に入るなり、

「どの的を使っていいですか?」

と尋ねた。

それに先輩は違和感を覚えたのだ。


まあ、確かに。


一方で、別の先輩は、

「まあ、この道場には受付みたいな仕組みがないからね」

と、こちら側にも課題があるという、冷静で寛容な姿勢だった。


それも確かに一理ある。


けれど、最初に苛立った先輩にとっては、こちらの仕組みの問題ではない。

それ以前に、人と人との間にある最低限のマナーの問題なのだ。

そんなやり取りを横で聞きながら、ふと思った。


自分にとって居心地のいい場所であればあるほど、そこは、初めて来た人にとって居心地の悪い場所になるのではないか。



弓道場は、単なる「弓を引くための施設」ではない。

そこには長く通っている人たちがいて、顔なじみがいて、自然とできあがった関係がある。


目上の人はどこを利用するのか。

どのタイミングで声をかけるのか。

どこまでが自由で、どこからが遠慮なのか。


わざわざ文章にして確認することもないけれど、みんながなんとなく知っている。

そういうものが積み重なって、その場所の「居心地」がつくられている。


ところが、その居心地のよさは、同時に「内側」と「外側」をつくってしまう。

長くいる人にとっては当たり前のことが、初めて来た人には分からない。

内側の人にとっては「普通」のことが、外側の人には「何をしたらいいのか分からない」という不安になる。



そう考えると、これは「公」と「共」の違いにもつながるような気がする。


たとえば、弓道場が公民館のような場所だったら、入口に受付がある。

そこで申請書を書き、使用料を支払う。

そうすれば、初めて利用する人でも、その場所を使うことができる。

誰かに挨拶をしなければならないわけでもない。

誰かに「使っていいですか」と尋ねる必要もない。

理屈の上では、とても公平だ。


ただ、その場所に「愛着」が生まれるかというと、また別の話なのかもしれない。

利用する人にとって、居心地は悪くない。

平等性が担保されている。

けれど、そこに「自分たちの場所」という感覚が生まれるとは限らない。


反対に、長く通う人たちがいて、顔と顔がつながっていて、そこに独自の文化が育っている場所には、強い愛着が生まれる。

でも、その愛着が強くなればなるほど、今度は外から来た人にとって、入りにくい場所にもなってしまう。


居心地のよさと、開かれていること。


この二つは、実は両立しにくいのではないか。

そして、ここで内と外の問題が発生すると多くの場合、「ルールをつくろう」という話になる。

初めて来た人にも分かるように、利用方法を明文化する。

挨拶の仕方、使っていい場所、使ってはいけない場所。

そうやってルールを増やしていけば、確かに分かりやすくはなる。

でも、ルールが増えれば増えるほど、人はその場所で自由に振る舞えなくなる。

ルールがいっぱいある場所は、やっぱり少し息苦しい。

では、どうすればいいのだろう。



そのことを考えていて、今のところ僕には、二つのあり方が思い浮かんだ。


ひとつは、お互いに干渉しないことで、誰もが自由でいられる場所。


オシャレな喫茶店などは、もしかするとそういう場所なのかもしれない。

誰が来てもいい。

誰が何をしていても、基本的には干渉しない。

それぞれが、それぞれの時間を過ごすことができる。


もうひとつは、まったく逆で、人と人との関係がオープンな気持ちで、お互いに接し合う場所。

知らない人が来ても、自然に声をかける。

分からないことがあれば教える。

初めて来た人も、「ここにいていい」と感じられる。


もちろん、そこには最低限のルールがある。

ただ、それは「禁止事項」を並べたようなルールではない。

むしろ、

「この場所では、こういうふうに人と接する」

という、もっと根っこのところにある共有感覚なのだと思う。


言葉にするのが難しい。

僕は今、それを「オープンな気持ちで、お互いに接し合う」と表現した。

でも、たぶん、もっと大事な言葉があるような気がしている。


長くその場所にいる人たちが、無意識のうちに共有しているものは何なのか。

何を守ろうとしているのか。

何を大切にしているのか。

そして、それを新しく来た人にも開いていくには、どうすればいいのか。

その場所が何によって成り立っているのか。


ルールとして明文化できるものもある。

けれど、本当にその場所をその場所らしくしているものは、案外、言葉にできないことなんじゃないか。


論語の

「道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に游ぶ」

という言葉にも、どこかつながっているように思う。


この論語の解釈は省くが


「道」に志し

「徳」を拠り所とし

「仁」を心のど真ん中に置き

「芸」に遊ぶ。


自分たちにとって居心地のいい場所を守ることと、初めて来た人にも居心地のいい場所にすること。

その二つをどう両立させるのか。

とても大事なテーマが隠れているように思うのだが、うまく表現しきれないもどかしさを感じる。

もどかしさのひとつは、これを伝え教えてくれる場所が少ないことにも関係する。

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