知行合一
- yamashina shigeru
- 2 分前
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修身を学ぶ会富山
第13講 鴎外の一言
優れた人物とは、誰に話すわけでもなく、自分にとってかけがえのない「ルール」を持っているのだろう。
しかも、想像するに、そのルールは、本人にとっては「当たり前」になっているはずだ。
つまり、ルールがその人の血となり、肉となっている。
それが、他人からすると特別なことであることにも、本人は気づかないほどに。
さらに言えば、その人を支えている「ルール」は、意外にもシンプルなのだと思う。
小学校低学年くらいには、きっと学んでいるようなこと。
森鴎外の言葉は、これだった。
「その人の面前でいいにくいようなことは、たといその人がいない場所でも、いわないようにしなければならぬ」
この一言を、生涯かけて履践していく。
それが、森鴎外という人物をつくっていた。
もし、日常の仕事の中で、目の前の人から、その人自身をつくりあげている大切な「聖なる言葉」を聞かせてもらうことができたなら、それは何と感動することだろう。
その人の中にある、本当の言葉に出逢う。
そんな仕事をしていきたいと、強く思えた。
この講で大切なのは、ただ「知る」ことで立ち止まってはいけない、ということだ。
知ることと、行うことを一つにする。
しかも、「行う」とは、一度実践して終わることではない。
生涯をかけて行っていくことなのだ。
つまり、聞かせてもらった言葉を、ただ知識として頭に置いておくのではなく、自分の血肉とする。
そのための勇気ある一歩こそが、修身となるのだろう。
ここで、鴎外の言葉と重なるような、論語の一節を思い出した。
子貢問いて曰わく
一言にして以って終身これを行うべき者ありや
子曰わく
それ恕か
己の欲せざる所、人に施すことなかれ
子貢が孔子に尋ねる。
「一言で、生涯大切にして行うべきことを言うなら、何でしょうか」
それに対して孔子は、
「それは『恕』ではないか。」
「つまり、自分がしてほしくないことを、人にしてはいけない」
と答える。
鴎外の一言も、孔子の「恕」も、決して難しいことを言っているわけではない。
むしろ、誰もが一度は聞いたことのあるような、当たり前のことだ。
けれども、「当たり前」なことだからこそ、生涯かけて自分のものにしていく厳しさが伝わる。
最後に、森鴎外の生涯について少し調べた内容を残す。
38~45歳で本当の問いが始まる
森鷗外は1862年生まれ
38歳の1899年、小倉の第十二師団軍医部長として赴任
そして40歳の1902年に東京へ戻り、荒木志げと再婚
42歳の1904年には日露戦争に軍医として従軍
1907年、45歳で軍医としての最高位に到達
鷗外はその一方で、1900年頃から創作活動をほぼ10年間休止していた。
そして、47歳の1909年に文学活動を本格的に再開する。
49歳『雁』
51歳『阿部一族』
53歳『山椒大夫』
54歳『高瀬舟』
では、「本当の問い」はいつ始まったのか。
「それまで別々だった二つの人生を、どう生きるのか」 という問いが深まった時期は、まさに40歳前後だったのではないか。
軍医・官僚としての森林太郎
文学者・思想家としての森鷗外
鷗外は、この二つの人生を一人の人間の中に生きていた。
そして40歳前後に、 「自分は一体何者なのか」 「自分は何を生きるのか」 という問いに、より深く向き合うようになったのではないか。
38歳で小倉に赴任し、環境が変わる。
40歳で家族と人生の形が変わる。
42歳で戦争という巨大な現実に向き合う。
45歳で軍医として頂点に立つ。
47歳で文学を再び本格化させる。
これは、40歳前後から「本当の問い」に向き合いながら、人生という山を登ってきた道と、これから下っていく道、その両方を目前にして、山の「稜線」を歩み始めた人生ともいえる。
鷗外の問いは、 医学 → 軍事 → 国家 → 文学 → 歴史→ 文化 と、次第に大きくなっていく。
その問いは、おそらく「近代を生きる人間とは何なのか」だったのではないか。
38~45歳で、これまでの経験が「本当の問い」に変わり、その答えを50代以降の仕事として生き始めた。
森鷗外の人生は、そんな人生のように思える。



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