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志を語ること

修身を学ぶ会富山

第34講 国民教育の眼目


昭和12年から13年の授業内容である。

当時と今の時代背景や環境は全く違うと思うが、教育の問題は、当時から今に至るまで続いていることが分かった。

 

森先生は

現在何が一番欠けているかと言えば、それは制度でもなければ設備でもなく、実に人的要素としての教師の自覚いかんの問題だと言うべきでしょう。

教師自身が真に「志」が立っていないこと。

それだと、いつまでたっても生徒たちの魂は眠りから醒ますことはできない。

教師が自覚するためには、公に目を向けることが大事。

 

と続く。


ここでは、「志」という言葉が強く語られていた。

 


孔子の言葉を思い出す。


朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり


朝に、人間はどう生きるべきかを知ることができれば、夕方には死んでも心残りはない。

そういった論語の章句だ。

学を志すということは、そこまでど真剣な学びだったのだろう。


ひとつ問いがぼくの中で生まれた。

「今の学校の中では、なぜ「志」を語らなくなったのだろうか」


特に、大学生になると、研究室に入るまでは基本的には授業の選択は個人の自由であり、生徒は自分が受けたい授業を受けることになる。そうなると、「志」または「道徳」について語る時間は、どこにもない。

唯一、部活で熱中している時間と仲間との対話はできる。

今振り返っても、その時間はすごく尊い時間だ。

 

しかし、そういった強く結ばれた仲間同士ですら、「志」を語ることは稀である。

政治や宗教を語るのと同じくらいに、「志」を語ることの難しさを感じる。

それはなぜなんだろうか。



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