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執筆者の写真yamashina shigeru

意識的な親

いま、ニューアースの読書会に毎朝参加させてもらっている。


ニュー・アース

エックハルト・トール 著


意識な親


子どもは心の奥で親に、親という役割を演じるより人間であって欲しいと願っている。


(長男が描いた夏油)



この言葉は本当に心に響く。

父親として子供との関わりを考えて響くというよりも、自分と自分の親との関わりを想うとき、本当にそうだなと気づく。

 

ぼくの知る父も母も、仕事と生活がひとつとして生きてきたように思う。

子どもの頃は家と仕事場がひとつになっていたことも大きな要因だ。

家には常に社員とお客様や出入り業者が、廊下を行ったり来たりしている中で育った。


母はお客様と打合せをするとき、すばらしいコミュニケーション能力を発揮する。

先の先の話題を読み、お客様に驚きと笑いを提供する。

ぼくはその会話を横で聞きながら、家族のときだけの母の姿とまるっきり違う驚きと、秘めた才能に感動していた。


ぼくは、この知的で唯一無二の営業の顔の母に憧れていた。

その憧れの母の姿を思い浮かべながら2人だけで会話すると、まるで別人のような母に出逢う。

家族との会話とお客様との会話が違うのは当然なのだろうが、そのギャップに何度も心が傷ついた。


なぜ心が傷ついたのか。

今振り返ると、一体どちらが本当の母なのか、不安になったのだと思う。

そして、大人の事情を子どもに通そうとするとき、ふいに仕事の顔が現れる。

長けたコミュニケーション能力で戦略的に相手を納得させようとする顔だ。


この傷は今も残っていることを自分で気づいている。



父はお客様の前でも、子どもの前でも、ほとんと違いがない。

ぼくにも敬語に近い言葉を使ってくれる。

朝の挨拶は「おはよう」ではなく、「おはようございます」だ。


父の仕事を手伝い始めたとき、一切ストレスなく、社員の前やお客様の前で、父と役割を演じる必要なく会話ができる大きな理由は、これだ。

将来一緒に働くことをイメージして子育てしてくれたのか!と思えるぐらい、そう感じる。


なぜ父はこれほどまでに子供に丁寧に接することができるのだろう。

嫌だと思ったことは一度もないのだが、疑問に感じたことはある。


父の姿、母の姿。

ぼくはどちらの姿を求めていたのだろうか。

真実の姿は、父の中にあるのだろうか、母の中にあるのだろうか。

それとも自分の中にあるのだろうか。

または、全く別の次元、言葉をやりとりする会話の中にあるのだろうか。





あなたは子どものために正しいことをして最善を尽くしているかもしれないが、いくら最善を尽くしても、それだけでは足りない。それどころか正しくても最善でも、行動するだけで、「いまに在る」ことを無視していたのでは、絶対に充分ではない。

先ほどのニュー・アースの文の続きなのだが、これも心に響く。

思い出されるのは、ぼくが大阪に戻った時だ。


平日は富山、週末は家族のいる大阪、という二拠点生活を続けて15年以上。

大阪に戻ると、とりあえず掃除や洗濯のお手伝いをするように心がけている。


平日に妻に大きな負担を与えていることは知っているし、大阪にいる間は少しでも手伝いたい。そんな気持ちからだ。

子どもたちと妻がゆっくりくつろいでる瞬間を見図り、家事を手伝うようにしている。


しかし、そういったぼくの態度を妻は嫌う。

「ゆっくりソファに座って子どもたちの傍にいてほしい」と。


妻の気持ちもよくわかる。

しかし、それでも優先順位的に家事を終わらせることだと、意志を貫くことが多い。


ここでも「無意識の信念」がそうさせていたに違いない。

行動で示すことが正しいはずだと。


「いまに在る」ことを無視していたのだ。

エゴだったのだ。

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