日本語を学びたい全ての人に開かれた学校 Vol2(動画はvol3)
日本語を学びたい全ての人に開かれた学校
NPO法人富山国際学院 理事長
ちがいに気づき ちがいを活かし ちがいが創る しなやかな地域社会に向けて
NGOダイバーシティとやま 代表理事
宮田妙子さんとの対談動画。
対談の前に名刺のリニューアルを行い、そのまま対談させていただきました。
前回からのつづき
※前半で話しているのは、ぼくがコテンラジオの「障がい者の歴史」を聴いての感想です。後半はそれを踏まえての話をしています。
インクルージョン
SDGs的にいうと、誰一人取り残さないこと。
ただ、人間の脳の特性として「物事を分ける」ことで外の世界を認知している。
ということは、どこまでいっても「AとA以外」という感覚で世界を見ていくことになるので、なかなか差別はなくならないのかもしれない。
ポットキャストで語られていた2つの大きなテーマは。
①障害者の歴史はお金の分配の歴史だった
②人はメタ認知することが非常に難しい
インクルージョン、つまり包摂していこうと考えていっても、常に線引きとお金の分配の話になる。
誰にどれくらい分配すべきかという議論になる。
お金や時間など何の制限もない状態で正論をいうのは簡単なんだが、障害の歴史を振り返ると、お金の分配をどうするかという歴史になる。
しかし、本当は分配ではなく「投資」なのではないか。
今ぼくらが生きている世界にとっての価値とは
「効率がいいこと」
「お金を稼げていること」
に価値があるように認識されている。
しかし、歴史を振り返ると、戦争に強いことこそ最大の価値という国や時代があった。
その当時は、障がい者とは、戦闘能力が弱い人のことだった。
そんな感じで、障がい者の定義は、絶対的に決まっているわけではない。
その時代その時代で、価値を生み出せているかどうかで線引きされていた。
しかし、人が人を判断できないのではないか。
そもそも価値も、今生きている世界にとっての価値でしかなく、絶対的ではない。
かつ、今やっている活動が将来どうなるかは、誰も予測できない。
ということは、どこまでいっても正しい判断などできないはず。
判断できないことを、「分配する」という視点で考えるのはそもそもおかしいのでは。
今、価値がないようにみえているだけで、将来すごい価値に変わる可能性もある。
自分たちが当たり前だと考えている評価も、間違っている可能性もある。
であれば、障がい者を「助けるため」ということではなく、まだ価値が生まれていないものに対する投資として捉えるべきではないか。
もうひとつ。
ダーウィンの進化論の誤読と、キリスト教的視点が重なり、植民地時代の哲学になった。
強い国が弱い国を植民地化することは、科学的に正しい行為であり、神の意志である、といった具合に。
なので、当時の人々は、今から考えると野蛮な行為のように思えるかもしれないが、正しいことを行っていると信じていた可能性がある。
この認知の問題。
それは明らかに今の続いているはずだ。
これが、ポットキャストで最後に語られた問いだ。
過去の歴史を振り返ったときに、あの出来事はよくなかったと省みることはできるけど、イマココで何かやらかしている状態なんだけど、認知できていない状態が続いているはずだ。
それは果たしなんだろうか?
実は、ひとつ考えたことがある。
それは、会社の組織についてだ。
多くの経営者は、会社の組織をいかに強くできるかに時間とコストをかけている。
それは本当に正しいことなのか。
国家、教育、資本主義、疑念を抱かずに当たり前と思っていることがたくさんあるのだけど、そのひとつとして、「会社の組織を強くする」ということも、何の疑いもなく正しいことだと思っている。
しかし、その思考自体が間違いなのではないか。
会社の組織を強くすることが当たり前という前提があることで、精神的に病んだり、大切な命の時間を無駄にしたり、生きづらくしているのではないだろうか。
100年先、200年先の人類に、「あの当時の人間は、なんて意味のないことに時間をつかっているのだろうか」と思われるのではないか。
そんなテーマを思いついた。
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