時間とコスト
- yamashina shigeru
- 3月17日
- 読了時間: 5分
マネーバイアス
ピーター・カーニック 著
20番目の嘘
かかったコストで価格が決まる
今回の章は、文章量自体はとても短い。
しかし内容は、これまでで一番と言っていいほど、理解するのが難しかった。
テーマは「利子」である。
これまでも何度か登場してきた概念だが、正直なところ、どこか雲をつかむような感覚があり、腹落ちしていなかった。
ただ今回、少しだけその輪郭が見えてきたように思う。
まず提示されていたのは、ひとつの衝撃的な数字だった。
1980年代初頭における、サービス価格に含まれる利子の割合。
ごみ収集 12%
飲料水(上水道) 38%
下水・汚水処理 47%
公営住宅の家賃 77%
この数字をどう受け取ればいいのか、正直かなり戸惑った。
日々当たり前のように支払っている料金の中に、これほどまでに利子が含まれている。
その実感が、まったく持てなかったからだ。
おそらくこれは、複雑に重なり合ったサプライチェーンの中で、各段階の利子が積み重なっていった結果なのだろう。
ここで改めて、「利子とは何か」を考えてみた。
利子とは、シンプルに言えば
お金を借りるための使用料である。
例えば100万円を借りて、利子が5%なら、105万円にして返す。
ごく当たり前の契約に見える。
しかしここで、ひとつの素朴な疑問が生まれる。
その「5万円」は、いったいどこから来るのだろうか。
仮に、社会に存在するお金が100万円しかなかったとする。
その100万円を銀行が貸し出し、105万円で返す契約を結んだとする。
すると、返すべきお金は105万円。
しかし存在するお金は100万円。
この差分はどこから生まれるのか。
答えは、新たな借金である。
つまり、社会全体としては、借金が増え続けないと成り立たない構造になっている。
企業も同様だ。
設備や建物、機械を整えるためにお金を借りる。
その結果、利子を支払う必要が生まれる。
その利子はどこから支払われるのかといえば、
最終的には商品の価格に上乗せされる。
つまり、私たちが支払っている価格の中には、
単なるコストだけではなく、利子も含まれている。
ここで見えてくるのは、利子の本質である。
利子は借金から生まれる。
そして借金とは、未来の価値を先に使うことでもある。
そう考えると、
利子とは「未来に対する期待の価格」とも言える。
では、「利子」と「投資」は何が違うのだろうか。
利子は、未来への期待を、あらかじめ契約として固定する。
未来がどうなろうと関係なく、返済額は決まっている。
そこでは、時間はコストとして扱われる。
長く借りるほど、支払うものは増えていく。
一方で投資は、未来の価値に参加する行為である。
結果は確定しておらず、増えることもあれば減ることもある。
投資では、時間はコストではなく、可能性として働く。
価値が育つまでの余白であり、未来に開かれた時間である。
この違いを見たとき、「時間」という概念そのものに強い関心を持った。
時間をコストとして捉える社会と
時間を可能性として捉える社会
その違いは、どういった結果をもたらすのか。
さらに、「いまを生きる」ということは、この2つの社会と別軸なのか、そうではないのか。
ここまでを踏まえて、改めて考える。
利子が存在する社会とは、どのような社会なのか。
利子は、お金を借りたときに時間とともに増えていく。
そのため、借り手は元本に加えて利子を返し続けなければならない。
この仕組みが社会全体に広がると、
まず「利益を出し続けなければならない構造」が生まれる。
利益がなければ返済できないからだ。
さらに、借金は増え続ける。
利子を支払うためには新たなお金が必要であり、その多くは新しい借金によって生まれる。
つまり社会は、常に新しい借り手を必要とする構造になる。
また、利子は人の心理にも影響を与える。
貸す側は、できるだけ長く貸していたい。
時間が長いほど利子が増えるからだ。
借りる側は、できるだけ早く返したい。
時間が長いほど負担が増えるからだ。
その結果、社会の中で評価されるビジネスのあり方にも影響が出てくる。
短期間で結果が出るもの。
早く利益を生むもの。
そうしたものが優先されやすくなる。
一方で、教育や環境、地域文化のように、時間をかけて育つ価値は評価されにくくなる。
ただ、ここで強く感じるのは、
これは単純に「システムが悪い」という話ではないのではないか、ということだ。
利子という仕組みがあることで、人が時間をどう捉えるか、その心理が特定の方向に動きやすくなる。
つまり問題の本質は、システムそのものというよりも、人が時間をどう捉えるかにあるのではないか。
利子の世界では、時間はコストになる。
時間が経つほど、支払うものは増えていく。
投資の世界では、時間は可能性になる。
時間が経つほど、価値が育つ余白が広がる。
同じ時間でありながら、その意味はまったく異なる。
もし社会全体が時間をコストとして扱うなら、私たちは常に急ぎ続ける社会に生きることになる。
しかし時間を可能性として扱うなら、ゆっくりと育つ価値にも光が当たる社会になるかもしれない。
そしてもう一つ、ここで浮かぶ問いがある。
「いまを生きる」ということと、「時間をどう捉えるか」ということ。
この二つは矛盾しているようにも見える。
未来を見れば「いま」が薄れ、いまに集中すれば未来の概念は消えていく。
もしかすると、「いまを生きる」ということそのものが、時間の捉え方を変える鍵なのかもしれない。
ここを深めるための思考力は、まだ自分には足りない。

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