朝活大学素読会
子曰わく、訟を聽くこと吾猶人のごときなり。
必ずや訟無から使めんかと。
情無き者は、其の辭を盡すを得ず。
大いに民の志を畏れしむ。
此を本を知ると謂う。
此を本を知ると謂う。
此を知の至りと謂うなり。
孔子がおっしゃった。
私は訴えを聞いて判断を下すことはできる。
しかし、本当の願いは、訴えのない世の中にすること。
真実ではない訴えは、どんなに言葉を尽くしても、結局うまくいかないものだ。
自ら省みて、自らの志に気づき、偽りの訴えはできなくなる。
これを人の道の本を知るという。
これを知の至りともいう。
今回注目したポイントは
情(まこと)無き者は、其の辭(ことば)を盡(つく)すを得ず。
「情」と書いて、「まこと」と読ませてある。
人間の本当の真は、情にある。
情は実なり(情実)
情実とは、本来、情に流されるといったマイナスな表現で利用されることがあるが、情は本能的なものであり、これは借り物ではなく本物だと解説されている。
また、「此を本を知ると謂う。」を二度繰り返すところも独特だ。
今、別の読書会で学んでいる「ソース原理」の視点で、読み解くと。
本を知る、とは、コールを聴くということなのではないか。
自分のいのちに耳を傾ける。
自分のいのちの声に聴く。
知に至る、とは、自分が聞いたコールは、一時の感情のようなものではなく、生まれながらに自分の中にある想いだということ、また、これは決して自分ひとりだけのコールではなく、みんなにとってのコールなんだと、深いところで「繋がり」を感じることなのではないか。
情、とは、コールを聴き、繋がりを感じたときに、見えてきたビジョン。そのビジョンをカタチにしていくためにリスクを背負って一歩踏み出す。自らがソースとなる。
そのときの自分の内面から湧きあがるエネルギーが「情」なのかもしれない。
そう考えるなら、コールを聴き、つながりを感じ、一歩踏み出す。
そのエネルギーを軸として生きるとするなら、きっと偽りの訴えなど、なくなるだろう。
情をまこととして生きているか。
朝活大学素読会は、2週間に1回のペースで読み進めています。
Comments