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執筆者の写真yamashina shigeru

機能不全の愛

劇場版「進撃の巨人」完結編

THE LAST ATTACK

鑑賞



もちろん、漫画も読んだし、完結編もリアルタイムでテレビで見た。

それでも最高だったよ。

すっかり大切な場面とかも忘れてた!

 

毎朝5時からの音読会

「The Power of NOW」

にもつながる。



第8章 さとりに目覚めた人間関係をきずこう

第4節 「中毒的な人間関係」を「目覚めた人間関係」に変える方法


最高の自由とは何か?

「ほんとうの自分」は、思考の根底にある「大いなる存在」であり、痛みの根底にある「愛」と「喜び」です。この真実をさとることは、わたしたちにとって最高の自由になるはずです。


機能不全の恋愛関係

すでにそうであるもの」を受け入れると、もう思考から支配されません。それと同時に、愛、喜び、平和が存在できるスペースをつくっているのです。 すると、わたしたちはまず、自分自身に対する決めつけをやめます。次に、パートナーに対する決めつけをやめます。機能不全の恋愛関係を変化させる一番の触媒は、パートナーに対して、なんの決めつけもせず、相手のどんなところも変えようとせずに、ありのままに受け入れることです。



第8章 さとりに目覚めた人間関係をきずこう

第5節 人間関係はさとりをひらくチャンスにっできる


自分の心に直接働きかけをすることで、意識が変容されるわけではありません。パートナーや他者を変容させるのは、なおのこと不可能です。 わたしたちにできるのは、変容が起きるためのスペース、慈悲と愛が入ってくるためのスペースをつくることだけなのです。

ほんとうの自分とは何かに気づくことが、最高の自由であること。

「すでにそうであるもの」を受け入れることから始めること。

そして、私たちができることは、スペースをつくることだけ。


これはすごく心に響く。


なにか、最終到達点でもあるような「愛」を目指すことも重要なのだろうが、愛は結果であって、できることは、スペースをつくることなんだということ。




進撃の巨人のストーリーに触れると、

エレンは自由を求めつづけた。ほんとうの自分を求め続けたとも言える。

エレンは最後の地鳴らしを実行しつつも、常に仲間たちに、そして、この世界に対して、スペースを与え続けていた

「どんな選択も自由だ」と。


始祖ユミルは、機能不全かつ中毒的な愛をほんとうの愛に昇華させるために2000年間も苦しみ続けてた。

この苦しみに、エレンはスペースを与えることで、ミカサは、ほんとうの愛で、応えることになる。

 

しかし、結果的には、始祖ユミルが実現させたかった夢は、機能不全から生まれたエゴであり、それを昇華できたからといって、この世界を幸せに導くことはできなかった。

これが結論だ。


いかに素晴らしい夢や希望だとしても、その始まりがエゴの場合、最終的にはエゴを満足させるだけの結果しか生まない。



すでにそうであるもの」とは何か。


すべてのエルディア人は、道で繋がっている。

なぜ、道でひとつに繋がっているのだろうか。


これは原生生物の力、それとも、始祖ユミルの力なのか。

そう思いがちなんだが、実は違うのではないか。


ひとつの道、ひとつの命につながることができる力は、実は人類誰もがもっている力。

そのすでに持っている力を呼び覚ますキカッケを与えたのが、原生生物のDNAだっただけなのではないか。

つまり、原生生物にそういった力があったわけではなく、人類の力なのではないか。


道で繋がることは、その力の偉大さから、「恐怖」「権力」のように描かれているのだが、これも変だ。

実は、「我々はひとつである」という最高の気づき、最高の喜びのはず。

この「道でつながること」のポジティブな本当の意味を理解できた登場人物は、誰だったのだろう。

もしかすると、最後の最後にそこに到達できたのは、ジーク唯一人なのかもしれない。


また、「道で繋がる」という感覚は、人類がすでにもっている眠っている力なのだとしたら、本当に気づくべきは、エルディア人だから道につながるのではなく、そのもっと深いところに到達できれば、エルディア人やマーレ人という「血」で分けることではなく、人類すべての共通の力だということに至ること。


ここに至ることが、争いの歴史を繰り返さない進歩だったように感じる。

そしてそれこそが、「すでにそうであるもの」のひとつのように思う。



また、「巨人になる力をどうコントロールするか」「どうしたら恐怖の力をこの世から失くすか」というテーマが終始続ている。

しかし、これこそ実はもっとも大きな勘違いなのではないか。


巨人の力は恐怖ではない。


恐怖になるのは、巨人の力を権力者の意図で使うことである。

つまり、人の心の問題で、巨人に問題があるわけではないということ。

原子力の力にも似ている。

ここを著者の意図なのかは不明だが、読者は錯覚させられたまま物語を見続けさせられる。


道につながることも、巨人の力も、それ自体は、全く問題ではない。

問題どころか、むしろ、人類を次のステージに導く大切な偉大な慈悲の力のはず。



この「すでにそうである」事実を理解するには、その場、当事者の状態では、みえない。


地鳴らしから100年後の世界が、映画では最後のエンディングで流れていた。

「本当に100年前に巨人なんかいたのか?」

と会話する子どもたち。

 

たった100年で世界は変わる、常識も変わる。

だからといって100年前の人は愚かだったのか。


これは、今の自分たちにも当てはまることだろう。

自分たちは100年後の子孫から「なんて馬鹿なことをしていたのか」と言われることを必ず今しているはずだ。

それは何か。


ヒントは、未来に一番近い子どもたちの声を聴くことなのかもしれない。



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