無名有力
親子論語塾
今日は180回記念ということで、龍光院ではなく大徳寺法堂で作務、座禅、論語塾が行われました。
確か101回目にも大徳寺法堂で開催されたことを思い出します。

坐禅が始まる前に、和尚さんがこの場所について説明してくださいました。
ここは大徳寺の心臓部。
それなのに、一体も仏像がありません。
この建物や絵画には歴史的に有名な多くの方々が関わっていますが、それは決して本質ではない。
大切なのは「仏法」を守り繋ぐこと、そして心を育むこと。
「人こそが仏である」ということです。
和尚さんは
「寸松塾(親子論語塾)に触れた子どもたちが、いつかこの法堂の高座に上がり、説法ができるような人物になってほしい」
と願っておられました。
高座に登れるのは、必ずしも僧侶でなければならないわけではありません。
外に仏を求めるのではなく、自らの中に真の仏(人間性)を見出すことができた人物なのだと。
坐禅の後、論語塾が始まりました。
安岡先生が、祖父である安岡正篤先生の言葉を紹介してくださいました。
「無名有力な人になりなさい」
世に名を知られていなくとも、本当の実力・徳を持った人を目指しなさい、と。
君子は義に悟り、小人は利に悟る
非常に有名な章句の解説です。
「損得(利)」で動くのではなく、「自分が正しいと思うこと(義)」を大切にする。
では、その「正しいこと」とは何か。
ここで、人間に本来備わっている「4つの力」のお話がありました。
知識(知る):
物事の理屈や情報、概念を理解する力
技能(できる):
得た知識を実際に使い、具現化・表現する技術や身体知
習慣(つづける):
技能が意識せずとも当たり前に繰り返せる「型」となった状態
徳性(にじみでる):
知識・技能・習慣が磨かれ抜いた末に、品性として醸し出される根本の人間力
この4つの力こそ、人を人にしている力なんだと。
ここでひとつ問いが生まれます。
徳性には「知識・技能・習慣によって後から身につく徳性」だけでなく、「生まれながらに元々備わっている徳性」もあるのではないか。
安岡先生は子どもたちに問いかけられました。
「カレーライスを作る上で必要なものは何かな?」
子どもたちからは次々と手が挙がります。
「ルー!」「お肉!」「ニンジン!」「玉ねぎ!」「お米!」「水!」
しかし、本当にそれだけでしょうか。
例えば、
「大好きな人にカレーライスを作る上で必要なものは?」
という問いだったらどうでしょう。
大好きな人が食べる時にちょうど温かい状態にしておくこと。
どんなお皿に盛り付けるか。
スプーンは何がいいか。
ランチョンマットや、お部屋の照明はどうするか……。
思い浮かぶ配慮や工夫は無限に溢れてきます。
ここにこそ「徳性」が現れます。
相手を思いやる心
美しさを感じる心
本来備わっている徳性があるからこそ、知識や技能、習慣によって「にじみ出る力」が宿る。
つまり、自分には最初からその力が備わっているということ。
相手の心に光を見つける。
「あの人は、なんと純粋な思いやりの心を持っているのか」と。
その気づきが起きるということは、自分の心にも同じ光があるから気づくことができるのだ。
つまり、知識を得て、技能を身に付け、習慣化していくことで手に入れた「身体からにじみ出る力」は、最初から自分に備わっていた力を思い出したとも言えるのかもしれない。
この知識→技能→習慣→徳性という流れの中で、義(正しさ)のモノサシをアップデートしていくことになるのだろう。
続いて、ひとりの子どもがこの章句を発表してくれました。
曾子曰く、士は以て弘毅(こうき)ならざるべからず。
任重くして道遠し。
仁以て己が任となす。また重からずや。
死してしかしてのち已(や)む。
また遠からずや。
道を志す者は、度量が大きく意志が強く(弘毅で)なければならない。
なぜなら、責任は重く、道は遠いからである。
「仁(思いやりの心)」を自らの任務とする。なんと重いことではないか。
そしてその歩みは死ぬまで続く。なんと遠いことか。
今朝5時からの音読会で読んだ『人生とは長い時間をかけて自分を愛する旅である』(樋口耕太郎 著)の中に、「相手の関心に関心を持つ」という言葉がある。
相手の関心に関心を持つ生き方を、80歳になっても、90歳になっても、大病を患っても、大きな挫折に出逢っても、死ぬ間際まで変わらず目の前の人に実践できるだろうか。
そう想像した時、この曾子の言葉の強さが胸に響く。
では、私たちは何を学んでいくべきなのか。
最後に安岡先生が挙げてくださったキーワードが「情緒」でした。
「情緒」の意味を調べてみると、
人、もの、場所に出逢うことで、心の中にふと糸口を見つけて湧き出てくる味わいや気持ち
とある。
湧き出る気持ちを受け止める身体知を整える。
これを習慣にしていきたい。



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