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  • 執筆者の写真yamashina shigeru

物とは心の理

今朝は、朝活大学素読会でした。

今回のテーマは 身を修めるには、まず心を正しくするとはどういうことか


すごく分かりやすい内容だったのですが、伊與田さんの解説本にこの言葉がありました。


「致良知」


「良知」とは、生まれながらにして自らの内にある良心という鏡のこと。 その鏡が曇らないように心を澄んだ状態にしておかないといけない。

そうすれば、正しく物事を判断できるようになる。

と。



ところで、今回の気付きはここではない。 この「致良知」を調べているときに出逢った言葉がある。 それがこれだ。


物とは、心の理であり、それを正すことによって知す。 すなわち「良知を致す」ことである。

「物とは、心の理」であるとは一体どういうことなのか。

伊與田さんの解説本には


「物」の一番基本になるのは、自分であります。 自分も物の一つです。 だから、突き詰めていけば、「物を格す」とは「自己自身を格す」ことになる。

 

正直、これを読んでも今まであまり理解できていなかった。

それが今ぼんやりと理解できた感じだ。

僕の中の思考をアウトプットするには、一度、大学に書かれてある実践の過程を紹介する必要がある。

これだ。


実践の過程では、まず自己自身を正すことが大切(格物)

自己自身を正すことで、おのずから知が至る(致知)

知が至ることによって、外に表れる意が正常になる(誠意)

意が正常になれば、内なる心も正しくなる(正心)

心が正しくなると、身がよく修まる(修身)

身が修まると、家も斉うようになる(斉家)

家が斉うと、国も治まるようになる(治国)

国が治まると、天下も平らかになっていく(平天下)


この過程の最初が「格物」。

つまり、物を格すということになる。

そして、物とは自分自身なんだと解説されている。

 

そのスタートラインで、ずっと躓いていたんだ。

物は自分自身って、分かるようでわからない…どういうことかな?って。

 


それが「物とは、心の理である」という言葉で、パッと開くことができた。

確か先日読んだ「14歳からの哲学」にも同じようなことが書かれてあった。


つまり、ぼくらの目の前に存在している机、椅子、パソコン、ペン、・・・、あらゆる物はなぜ存在して、なぜ目の前にあるのか。

それを追求して考えていくと、「心」に至る。


誰かが、「作りたい」という心があるからこそ、物が作られたはずだ。

自分自身が仕事で作る資料やモノ、家庭でつくる料理、それもすべては、まず「心」があり、それがカタチになったものが「物」である。


つまり、物は、誰かの心の理なのだ。


物=心の理=自己自身

 

ここが繋がってくる。

格物とは、自己自身を正すこと、の意味がずんと心に落ちてきた。


自己自身を正すということは、生まれながらにしてもっている良心の鏡を澄ますことに通じる。

それが「致知」ということになる。


この良心の鏡が澄んでいれば、正しい判断もできるし、自分の意(喜怒哀楽、感情)が正常になるということだ。「誠意


喜怒哀楽、感情が正常になれば、内なる心が正しくなる。「正心

こんなふうに繋がっていくことになる。


おもしろいな。

次回は12月1日7時から



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