図解
渋沢栄一と論語と算盤
齋藤 孝 著
読了
とてもシンプルに分かりやすく解説してあった。
与えられた仕事にその時の全生命をかけて真面目にやりえぬ者は、いわゆる功名利達の運を開くことはできない(第2章 立志と学問)
任された仕事が重いからできないとか、軽いからやる気がしないなどではない。 与えられた仕事を全生命をかけて真面目にやらないと、運は開けない。
これは、どうにもこうにも真理のようだ。
ど真ん中名刺エディットワークでも、ここは大切にしている。
つまり大なる立志と小さな立志と矛盾するようなことがあってはならぬ。この両者は常に調和し一致するを要するものである。(第2章 立志と学問(大立志と小立志との調和))
たとえば、ひとつの実践 自分のど真ん中 自分はどんな人間になりたいのかという志 どんな社会を残したいのかという大志
それがひとつの道としてつながり、調和しているかどうか。
とても小さいことではあるが、ひとつ実践があるとする。 ①その実践を通して、自分はどんな人間に成長し、どんな変容を遂げたいのか。 ②その実践を通して、社会にとってどんな役割を担うのか。 ③その実践を通して、未来にどんな影響を与えるのか。
そういった、実践×自分、実践×社会、実践×未来を考えたときに生まれる、志、大志を見つめていく。
そして、ひとつの矛盾のない道をつくっていく。
意志の強固なるが上に聡明なる智恵を加味し、これを調節するに情愛をもってし、この三者を適度に調合したものを大きく発達せしめていったのが、始めて完全なる常識となるのである。(第3章 常識と習慣(常識とは如何なるものか))
つまり、常識とは、意(意志)・知(智恵)・情(情愛)のバランスにあるという。
確かにこれは考えればわかる。
強い意志だけあって、智恵が欠けている。 智恵があり、情も深いが、意志が弱く実践できない。
どちらにせよこの3つのバランスが大きく外れていると非常識な人になりそうだ。
では、たぶんど真ん中を生きている人であれば、一度は言われたことがあるだろう、いい意味での「変態」ってどんな人?
この意・知・情のどれがひとつが一般的なサイズに考えると、明らかに大きく秀でている。 そのままだと非常識だが、そのひとつ大きな長所である特異点を活用して、残りの2つも飛躍的に大きくさせようと、努力(当人は全く努力とは思わないと思うが)している者。 または、その結果、並外れた常識、大きなストライクゾーンを獲得した者を「変態」と呼ぶのかもしれない。
一般的な常識を覆いつくすほどの常識をもつことで、一般的な常識からみた時に、「変態」と思われるのだろう。
論語には、同じような章句がある。
「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者はおそれず。」
今日理化学がいかに進歩して、物質的の知識が増進して行くにもせよ、仁義とかいうものは、独り東洋人がさように観念しておるばかりではなく、西洋でも数千年前からの学者、もしくは聖賢とも称すべき人々の所論が、あまり変化をしておらぬように見える。 (第5章 理想と迷信(道徳は進化すべきか))
この本の中で、この章の解説がおもしろかった!
科学は積み上げていくことができる。 たとえば、どうしてパソコンが動くのか、どうやったら高層ビルを建てられるのか、空に飛行機を飛ばすことができるのか、、理屈など分からなくても、ぼくらは利用する。 それは、ひとつひとつの知識を積み上げてきた結果だろう。
それに比べて道徳はどうか。 人は生まれ死ぬ。
つねにゼロ歳から学びはじめ、実践の中で道徳を学んでいく。
そして死ぬ。これを繰り返していくことになる。 次世代に受け継がれる気品たるものはあるにせよ、その人その人が生涯学び続けていくことになる。
だからこそ、科学が進歩していけばしていくほど、対となる、仁(思いやり)、義(正しい行い)が大切になってくるはずだ。
この両輪を学ぶことが今を生きるぼくらにとって大切になってくるはずだ。
この図は、それを如実に表現している。
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