自分にとって愛とはどのような意味を持つものか。
これは、来週開催予定の「すべては1人からはじまる」勉強会のテーマでもある。
それを少し考えてみたい。
ヒントになったのは、月刊誌「致知」2023_4号だ。
特集のテーマは「人生の四季をどう生きるか」
このテーマに沿って多くの方の言葉が掲載されている。
華道家元四十五世 池坊専永氏の言葉
人間の命に比べ、花の命は儚く短い。 今日の花と明日の花とは全く違う。 刻一刻と変化する花の表情を捉えて、最大限に美しく見せることが、池坊のいけばなの根底に流れる精神です。
絵画や彫刻などは作品として後世まで残り続けます。 一方、いけばなは生きた草花を使いますから、作品の命は一瞬です。 では何を残さなければならないかと考えた時、それはやはり師の心だと思うのです。 花を通じて師匠の心を弟子に伝え、弟子の心またその弟子に伝える。
特別養護老人ホーム芦花ホーム医師 石飛幸三氏の言葉
人間は人生で何をしたかよりも、どのように生きたかが大事だと思っています。 その日が来るまで、後世の評価や名誉ではなく、自分がどこまで人間らしく、ありのまま生きられるか。 そのことを思いながら、与えられた役目を果たしていきたい。
特に、池坊氏の言葉を読みながら、「自分にとって愛とはどのような意味を持つものか。」について考える呼び水となった。
これだという答えに辿りつたわけでは決してないが、頭に浮かんできたことを残したい。
華道、茶道、剣道、柔道、「道」と名のつくものは、型というものは存在するにせよ、個の最高傑作というものを残すことを考えられていないということ。
世は、常に移ろい変化していくものだと理解しながらも、その変化の一瞬に全生命を傾ける。
全生命を傾けるのに、そこに留まることや執着はない。
変わっていくことを自然なことだと受け入れ、立ち止まらない。
立ち止まらないのだ。
ぼくは、ここに「愛」を感じた。
そして、医師の石飛さんの言葉にあるように、それは芸術や武道の世界だけのことではなく、人間そのものにも当てはまるということ。
人の身体は、昨日の自分と今日の自分は、ほとんど変化していないように見えるが、違う。
細胞ひとつひとつは、常に入れ替わり、循環している。
立ち止まることを許さない。
立ち止まるということは、「死」を意味する。
日々細胞が入れ替わるのにも関わらず、なぜ身体のカタチを維持できてるのかは、ぼくは知らない。
なぜ心臓が動き続けてくれているのも知らない。
知らなくても、見えなくても、意識しなくても、勝手に動き続けてくれている。
ぼくはそれが愛なんじゃないかなと思えた。
人一人の一生では目に見えない世界に、循環があるということ。
循環ということは、命のバトンが渡されていくということ。
信じる、信じないも関係なく、そこに営みがある。
それが愛なのかもしれない。
であれば、ぼくにとって愛とはどのような意味をもつものなのだろう。
命の川の流れなのかもしれないし、無限のパワーの源なのかもしれないし、、。
言葉で表現しきれない大きな存在だ。
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