修身を学ぶ会富山
第25講 最善観
わが身の上に起こる事柄は、そのすべてが絶対必然であり、最善である。
いろんなことが思い浮かび、なかなか言葉がでてこない。
「事柄」は、きっとそうなんだと、理解できているつもりである。
ただ、事柄があることで生まれる「感情」はどうなんだろうか。
感情に囚われることなく、事柄を事柄として受け止めることからはじめることが大事なのだろうか。
また、最善観という考え方を素直に表現できる社会なのだろうか。
あたかも、感情を排除した生き方のようにも思えるし、むしろ、多感な生き方のようにも思える。
努力を否定する生き方とも思えるし、むしろ、直観に生きる生き方のように思える。
揺れている自分に出逢う。
ここまで考えてきて思うことは、事柄も、事柄から生まれる感情も、含めて、必然であり最善だと考えていくことが、最善観なのかもしれない。
ここでいう感情というのは、自分の感情もそうだが、事柄に巻き込まれた身近な人たちの感情一切ということ。
そう捉えるとするならば、すごく重みある言葉だと感じる。
また、社会として、もう少し失敗を許容できる社会になるといいなと感じた。
失敗をする前に予防できることは、すばらしいことだが、あまりにも失敗しないようにでき上がったシステムの中では、この「最善観」という価値自体が揺らぐような感覚を覚えた。
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