第15講 一時一事
スポーツでは、一時一事でプレーする大切さは、よく分かる。
しかし、スポーツや仕事などの一場面の中で一時一事で向き合うことが大切なのではなく、生活の中に浸透できるか。
これがテーマだろう。
食事の時間はどうだろうか。
車の運転中はどうだろうか。
寝る前のストレッチの時間はどうだろうか。
食事の時間を一時一事で楽しむということは、ここ最近意識していることだ。
意識しなくても、そうなる状態でありたい。
一事一時、コトニアタル。
心掛けていきたい。
今回は別の視点で「一時一事」を考えることができた。
一時一事の状態を他者に自分の都合で求める態度、についてだ。
うまく言語化できないのだが、これまで出会ったことのある人の中で、どうしても波長が合わないなと感じる時があった。
興味関心が違うということではなく、なんとなく感じる威圧感。
その正体こそ、一時一事の状態を他者に自分の都合で求める態度だったのではないか。
話は横道に逸れるが、ど真ん中エディットワークでは、「実践」を大切にしましょう、ということをお伝えしている。
実践とは…
今自分が置かれいてる情況を理解しているのであれば、きっとやるべきことがあるはずだ。それをやる。それが実践だ。
つまり、目標があるからするのではなく、自分の情況が中心だ。
そして、実践をする上での注意点として、その実践の行為は「意思動詞に変換できているか」ということをワークの中では考えてもらっている。
意志動詞とは…
その行為をするときに、他人の評価や判断は一切不要で、自分の責任100%でできること。
たとえば、「漫画家になる」と言う言葉。
これは実践かというえば、違う。
夢、野望、計画、行動、目標のような類になるだろう。
「漫画家になる」ためには、まず漫画を描き、出版社に応募し、評価され、判断され、紙面に載る必要がある。
そうなって初めて漫画家ということになるのだろう。
この過程の中には、多くの他人の評価、判断が必要だ。
つまり、「漫画家になる」という言葉は、意志動詞ではない。
無意志動詞だ。
しかし、「漫画家になる」という言葉を「漫画を描く」という言葉に変換すればどうだろうか。
それだけで、世界は一変する。
漫画を描けばいいのだ。
シンプルな世界。
自分勝手に、好きな時間に、何枚でも、何枚でも。
無限に広がる世界が登場する。
それが意志動詞である。
この「実践」や「意志動詞」の話は、今回のテーマ「一時一事」につながるのではないか。
「一時一事」とは、自分が100%責任をもってコントロールできる世界の中で、自分との対話の話なのではないか。
にも関わらず、他人を影響の輪に加え、あたかも複数人で行おうとする態度。
もちろん、そこに合意が得られているのであれば、チームとしてフロー状態になるいい関係性になると思うが、そうでない場合…。
ここに拒否反応が起きてしまうのだろう。
これは、自分も振り返って気を付けなければならないことだと理解した。
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