憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず。 一隅を挙ぐるに、三隅を以つて反せずんば、 則ち復せざるなり。
教えを受けたいと思っている者は、疑問を解決したいという情熱が溢れ出るくらいにならなければ、私はこれを啓き導くことはしない。
心では分かっていながら、言葉ではうまく言えなくて、もどかしい気持ちにならなければ、私ははっきりとは教えない。
一つの隅を取り上げて示すと、他の三つの隅も自分で推測して説明できるほどでなければ、繰り返し教えることはない。
(「実践・論語塾」安岡定子著)
孔子の立場ではなく、生徒の立場を考えた場合。
ある問題をどうしても解決したくて、解決したくて、普段の生活もままならない状態。
そして、ココロにあるものをなんとか言葉にして、周りに意見を聞きたくても、どう表現すべきかわからない状態。
そんな状態であるとき、まず、理解してもらえなくとも安心して語ることができる相手を探すだろう。
次に、ほんのちょっとでもいいので、問題を解決に向かうヒントがほしい。
そのヒントはどんなものか。
たぶん、自分が信頼する人が実際に体験し、その上で、習得した世の中の理かもしれない。
誰かの言葉、誰かの体験談ではなく、自分が相談したいと思えた人の内面からでる言葉だろう。
逆の立場、つまり孔子や先生という立場で考えるとどうなるか。
それほどまでに本気で教えを求めてくる相手にかけることができる言葉は何か。
やはり、自分の言葉、自分の体験しかないはずだ。
そうでなければ失礼にあたると感じるだろう。
また、自分を相談相手として選んでくれたことに幸せと喜びを感じるに違いない。
つまり、学ぶことは自分の幸せにもつながるが、その学びを誰か伝えるタイミングが来た時、さらなる幸せを感じることができる。
その瞬間はいつ訪れるかわからないが、いつその日が訪れても、胸を張って自分を語れる人でありたい。
そのためにもいろんな経験は大切になる。
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