自分も自然である
- yamashina shigeru
- 11 時間前
- 読了時間: 5分
動的平衡は利他に通じる
福岡伸一 著
読了

すごく興味深かった箇所を紹介します。
生命は、エントロピー増大の法則を「先回り」して、あえて自ら積極的に破壊を行っている。そのことでエントロピー増大の法則の進行を一瞬、追い越しているのだ。この局所的な追い越し分を使って、新たな秩序を構築している。
秩序はそれを守られるためにまず壊される。
システムは、変わらないために変わり続ける。
生命のこの営み、分解と合成という相反することを同時に行い、しかも分解を「先回り」して行うこと、これを「動的平衡」と呼ぶ。
まずは、この文章に衝撃を感じた。
これまで何度も「動的平衡」の言葉を聞いてきたし、表面的には理解していると思っていた。
よく例えられるガスバーナーの炎のイメージ。つまり、見た目は同じで停止しているようにみえるが、常に新しい成分で炎はカタチ作られている。
動的平衡とはそういうことだと薄っすら理解していた。
とんでもない。
全然違っていた。
「自ら」「積極的に」破壊している。
そのことで、時間を超える。
この時間を超える行為を自ずから行いつづけ、「今」を維持しようと試み続けている力が、生命であり、動的平衡なんだろう。
そう考えると、日常の中で本来の意味として生きる営みと言えることは何だろうか。
想像を巡らしたくなる。
記憶はつながりの中に(p55)
私たちの身体はいっときもとどまることなく更新され続ける。1年もすれば物資的にはほとんど別人になっている。
ではどうして記憶は保持されるのでしょうか。
…記憶は物質として保持されているのではなく、関係性として保持されているのである。
細胞が入れ替わり続けていることは知っている。
しかし、なぜ記憶が保持されているのかという問いを考えたことがなかった。
それは、神経細胞と神経細胞のつながれ方、関係性の中で記憶が保持されているということ。
「わたしとは誰か」
「わたし」という物質があるのではなく、身体を構成しているひとつひとつの細胞同士の関係性でしかないのかもしれない。
そんなイメージが思い浮かぶ。
もうひとつ拡張するのなら、チームの中のひとり、ということはなく、チームの中に存在するだけで、少なからずチームに影響を及ぼしており、チームの中に優秀な人がいるとしても、その優秀の人と自分は、何が違うのか。
違うのではなく、同じであり別である。大事なのか関係性なんだと思う。
結局関係性の中にこそ「存在」がある。
言葉で伝える限界も感じつつ。
遺伝子の束縛から脱する価値(p61)
遺伝子の呪縛とは何か。それは、争え、奪え、縄張りを作れ、そして自分だけ増えよ、という利己的な命令である。これに対して、争うのではなく協力し、奪うのではなく分け与え、縄張りをなくして交流し、自分だけの利益を超えて共生すること、つまり遺伝子の束縛からの自由にこそ、新しい価値を見出した初めての生命体がヒトなのである。
遺伝子からの束縛から脱することの価値を見出したからこそ、常に、悩むことにもなる。
悩むこと、壁にぶつかることは、立派にヒトとして生きている証なのかもしれない。
命の美しさ、感じる心こそ(p61)
知ることよりもまず感じること。レイチェル・カーソンは、「センス・オブ・ワンダー」という言葉を使った。驚きを感じる心、とでも訳せようか。
自然とは、アマゾンやアフリカのような大自然である必要は全然ないと思う。もっとも身近な自然とは、自分自身の生命にほかならない。私たちはふいに生まれ、いつか必ず死ぬ。それこそが自然だ。そして私の生命はいつもまわりの自然と直接的につながっている。
古典「大学」を勉強していると「格物致知」という言葉に出会う。
「物を格して后知至る」
学び始めのころ、物を格すとは、身近な物を整理することぐらいにしか思っていなかった。
自分の周辺を整理整頓していけば、自然に「知」が至るんだと。
しかし、違っていた。
「物」とは自分である。「物」とはBeingのことなのだ。
生命とは自然であり、存在であり、Beingであるということ。
そんな当たり前のことをすぐに忘れてしまう。
どこかで自分は特別な何かだと思ってしまうのだろう。
何もない、と思っていた所は(p159)
人間の器官の中でもっとも大きいものは何か。脳? 肝臓? 消化器官?
「器官」の定義にもよるが、体重の約16%を占める皮膚が、最大の器官となる。ところが先日、米国の学者が新説を提唱した。全身の器官と器官のあいだにある「間質」。ここは独自の組織、液体、細胞で満たされた生命活動の現場であることがわかった。なんと体重の20%を占める最大の器官だ。
これは言われてみないとなかなか気づけない視点だ。
「あいだ」「関係性」、見えるようで見えないもの。
それでも必ずそこに在る。
「間質」に生命活動の現場がある。
私から相手を観たときの視点
相手から私を観たときの視点
第三者から私と相手を観たときの視点
お互いの関係性に着眼した視点
最後の関係性に着眼した視点こそ「現場」であり、もっとも情報が満たされているところなのかもしれない。
しかし、この関係性を観て対話をする習慣はほとんどない。
どちらかというと、日本人は得意なのかもしれない。
人文知の力、忘れていないか(p180)
自然は本来、混沌、無秩序で、常に変化し、しかも毎回異なるものだ。それをモデル化し、数式に置き換え、再現性のある法則とするのが物理学だ。
芸術には、たわめられた自然を、もとの自然に回復する力がある。
アート、哲学、リベラルアート。そういった分野が少しずつ光が当たり始めているように感じる。これは必然の流れなのかもしれない。
「間質」同様、人文知の力を忘れてしまうと、自然を不自然な状態で理解してしまう。
非効率なように感じる行為の中にある心をどう仕事の中で大切にしていくか。
ここはすごく大切なテーマなように思う。
人間が描く絵空事(p182)
機械は延長で欠いた一点としての現在しか捉えないが、人間の知性は違う。現在を点ではなく、未来と過去を同時に含んだ空間として考えることができる。
生命は、エントロピー増大の法則を「自ら破壊する」というとんでもないアイデアで、時間を一瞬飛び越える力をもっており、ヒトは現在と過去と未来をつなぎ、時間と共創する知性をもつ。
この2つの力が自分にあることを誇りにしたい。




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